本文へスキップ

    

          江戸川のほとりにて科学啓蒙作家の塾「田井塾」として52年

   「田井塾」愛:〜アインシュタインの世界〜



         
                 

         【愛実践】〜アインシュタインの言葉の泉〜

・・・・・ 序 奏 ・・・・・

☆モーツアルト☆・・・・・「フルートとハープのための協奏曲ハ長調K.299」
           ♪…第二楽章アンダンティーノ・・・♪
・・・・・・・・・・・

●●●  ●●●
 アインシュタインの理論的予言である「重力波」が現実に存在することが実証されましたことを心からお慶び申し上げます。(2016.2.11)
・・・・・・・・・・・・・

その代わりに、私たちが測定した結果を基に確率を計算するといった間接的な方法を利用しています。(2017.11.23下訳)

●この理論の驚くほどの成功によって2倍の犠牲を払わねばなりませんでした。それは因果関係の要求を拒否すること(原子の世界ではこの関係は成り立たないのです)、実際の物理学的対象を時空間の中で記述する試みを放棄することです。(2017.10.31訳出)

本来の意味での場の理論を確率分布の場に置き換えると、私たちが光の理論の枠を越えた方法が得られること、またこれに適切な変化を加えると、重さのある物質のもっとも有益な理論が得られることが分かりました。(2017.10.15訳出)

つまり、ある与えられた領域における波動場の強さは、その領域に光子が存在する確率の大きさで表されています。この確率だけは光の吸収に関する実験でも測定できます。(2017.10.5訳出)

これほど難しい状況の中から物理学者たちは次のような解決法を見出しました。彼らは光の波動的記述を残しましたが、しかし、波動場はエネルギーが空間中を伝搬する実在場ではなく、物理学的な意味を持つ数学的な構造を意味するにすぎませんでした。(2017.9.19訳出)

さらに、光子を点構造と見なすと、2本の光線が相互作用する時にだけ発生する干渉現象を説明できません。(2017.9.2訳出)

このように解釈すると2つの問題にぶつかります。反射板に到達する前は光子は方向、色、偏向によって特徴付けられる単純な物理学的対象であると仮定しましょう。まず、反射板を通り抜けるのであれ、そこで反射するのであれ、光子はそれぞれの場合で何に依存しているのでしょうか。おそらく、このどちらかを選ぶための確実な根拠を見付けることはできないでしょう。また、このような根拠が一般に存在しているということも簡単には信じられません。(2017.8.11訳出)

しかし、光子が点の構造をしていて、それが空間の中を運動している場合を想像してみましょう。すると、光子のエネルギーは分割出来ませんから、それは反射板を通り抜けるか、あるいはそこで反射するしかありません。(2017.7.27訳出)

マクスウェルの場の理論は、明らかに、光子のこうした複合的な特徴を考えに入れることが出来ません。この理論は放射エネルギーを吸収するさいの原子的特徴を理解する方法さえも私たちに与えていないのです。(2017.7.14訳出)

●このことから、私たちはこの現象が複数の光子によってではなく、一個の光子によって決定されると結論しなければなりません。つまり、2本の光線が互いに干渉し合う能力も、光の吸収も一個の光子によって決定されるのです。(2017.6.25訳出)

●ところが、ここで新たな事実が出て来ました。それは、光が原子的なエネルギー構造をしているということ、つまり、一般的な言い方をすると、光が「光子」から成り立っているということが分かったのです。私たちが問題にしている光線の一方が物体に入射し、吸収素過程が起こったとき、この時に吸収されるエネルギーの量は光の強さに依存していません。(2017.6.8訳出)


この全過程を電磁場を使って正確に、しかも完全に記述できることは明らかです。しかも、この理論式によってこの両方の光線の方向、強度、偏向が分かるだけでなく、装置を使ってこれらの光線を重ね合わせた時に発生する干渉現象も驚くほど正確に記述できるのです。(2017.5.27訳出)

私が今考えていることを光を例として説明しましょう。透明な反射板に単色光線が入射したとしましょう。入射光線は通過光線と反射光線に分かれます。(2017.5.13訳出)

当時ほぼすべての物理学者たちは巨大な実験材料に押され、このような理想的な基礎でも、たとえそれがかなり広範囲の現象を網羅しているとしても、書き換えねばならないという考えに達していました。(2017.3.20訳出)

もちろん、この法則(訳注:下記の数学的な法則)から、すでに述べた意味での厳密な因果関係が導かれます。(2017.3.4訳出)

しかし、この体系を立証できるのは経験による裏付けのみである。なお、この段階で自然の法則と言う時は、数学的な記述も可能な理論体系の要素と要素の間の関係を表す数学的な法則である。(2017.2.23訳出)

つい25年前まで物理学的にどのような考え方をしていたか、その特徴を次のように要約してみましょう。
 認識にも感覚にも依存しない物理学的実在が存在する。これは時空間中での現象を記述する理論体系を使って完全に理解できるものである。(2017.2.5訳出)

もちろん、場の概念は感覚的な理解から直接は出て来ませんでした。しかし、物理学的な実在をただ連続的な場の形で表し、また質点を独立した実体として理論の中に導入しないようにしようとする傾向さえ現れました。(2017.1.26訳出)

ファラデーとマクスウェルの電磁場理論が誕生することによって実在論の概念はさらなる改良をせまられました。かつて重さのある物質が記述していた最も単純な実在の役割を空間を連続的に伝搬する電磁場が担わなければならなくなったからです。(2017.1.3訳出)

しかし、不変な質点を導入することはもっと手の込んだ実在論に向けて一歩踏み出すことを意味していました。なぜなら、このような原子的な要素は直接観測されることによって導入されたわけではなかったからです。(2016.12.20訳出)

哲学的な観点からすると、このような世界の概念は素朴実在論と密接に関連しています。哲学者たちが私たちの世界の対象が感覚的な理解を通して私たちに直接届けられていると考えているためです。(2016.11.27訳出)

質点に力が作用していることは、この力の作用で質点が絶えず運動しているものと考えると、観測されるあらゆる現象がすべて説明できることから明らかでした。(2016.11.9訳出)

ところで、これらの基本は実際には私たちが考えているものよりもっと狭いものでした。外界の対象は互いに相互作用している、不変の質点で出来ていると考えられていたからです。(2016.10.26訳出)

私たちが「因果関係」について話をする時は正にこのこと(注:下記のこと)を念頭に置いているのです。100年前は物理学的思考の境界線はほぼこのようになっていたのでした。(2016.10.16訳出)

また、実在する外界の法則は次の意味で完全であると見なされていました。それは、ある瞬間の対象の状態が完全に分かっていれば、任意の瞬間におけるその対象の状態が自然法則によって完全に決定されるということです。(2016.10.7訳出)

法則はあらゆる場合に例外なく正しいと仮定されていました。しかし、この法則から導かれる結果が実験で否定される場合がただの一度でもあれば、それは正しくないと見なされました。(2016.9.18訳出)

物理学者にとっては天体も地球上の物体、あるいは化学的に異なる成分を持つ物体も実体として時間と空間の中に存在しているにすぎませんでした。つまり、物理学者の課題は仮説を一般化する方法を使って実験から一般法則をただひたすら導くことでした。(2016.9.2訳出)

すでにルネッサンス時代から物理学は時間と空間の中での物体の振る舞いを決定する一般法則を見出そうとしていました。それまでは物体の存在に関する問題の考察は哲学にまかせられていました。(2016.8.11訳出)

この観点(訳注:さまざまな分野の科学が異なる分野で研究している科学者に強い影響を及ぼし、かつ、それぞれの世代の哲学的な思考にも強く影響しているということ)から、ここ100年の間の物理学の進歩を簡単に振り返ってみましょう。(2016.7.31訳出)

哲学とは最も一般的かつ最も普遍的な知識を探索することであるとすると、それは明らかにあらゆる科学的探究の生地と見なせます。しかし、さまざまな分野の科学が異なる分野で研究している科学者に強い影響を及ぼし、さらに、それぞれの世代の哲学的な思考にも強く影響しているという考えも間違っていません。(2016.7.18訳出)

このたび、私の研究分野とかけ離れた領域で研究している研究者の皆さんにお話する機会が与えられ、自然と、より一般的な性格を持つ認識論の問題を考えてみよう、言わば、哲学の薄氷に立ってみようと思った次第です。
(2016.7.6訳出)

もし、医者が体を切開した後に異常事態を発見した場合、何をすべきか、何を回避しなければならないかをすぐに決めなければなりません。このような場合は意志が強固でなければなりません。正にこうした状況を経験したればこそ、私は医者を心から尊敬するのです。(2016.6.19訳出)

したがって、医者にとって最も重要なことは一般的な因果関係を深く知っていることです。さらに外科医となると、もう2つの性質を備えていなければなりません。腕と感覚器官が並外れて信頼できること、それからひじょうに沈着冷静であることです。(2016.6.9訳出)

医学の世界でも知識のレベルが上がるにつれて避けようもなく専門化が進んでいきました。ただこの専門化には当然ながら限界があります。体のある部分が悪くなっ場合、それを治せるのは体全体の複雑な構造をよく知っている人です。さらに重い病気の場合、その原因を正しく理解出来るのもそうした人だけです。(2016.5.29訳出)

しかし、このため、たとえば、今日では洋服をうまくつくろったり、時計は言うまでもなく、家具を修理出来る人を見つけるのがかなり難しくなっています。研究に関連する職業はどうかというと、やはり同じであって、良いとは言えません。これは教養のある人のよく知っていることです。(2016.5.22訳出)

しかし、私が医者に対して心から深く尊敬する気持ちを抱くにはまだ他にも理由があります。人間が活動する領域が専門化することによって、もちろん、個人個人の手の届く範囲が狭まり、ところが、これによって思い掛けない成果が得られるようになりました。(2016.5.17訳出)

私はこの20年の間医者をそれほど恐れることもなく、かなりの程度でアメリカ人になっていると思います。昨年は医者は患者に発生した宿命的な結果を楽にする方法をいかに見事に身に付けていることかと、これを自分の経験を通して確信できる偶然さえもが私におとずれました。(2016.5.8訳出)

**********

※以下「バートランド・ラッセルの認識論に関する所見」(1944年)でした。

正にそうであればこそ、この本の最後の章で、人はけっきょくは「形而上学」なしではやっていけないだろう、ということを知って、私はとくに爽快な気分になった次第です。(2016.5.1訳出)

しかし、そうであるにもかかわらず、独立した概念として(物理学的な意味での対象である)物をそれと一致する時空間構造と一緒に体系の中に入れることに「形而上学的」な危険性をまったく感じません。(2016.4.23訳出)

しかも、2つの物の性質がすべて一致するなら、これらの物は同一の物と見なされるという事実が、物と物の間の幾何学的な関係をそれらの質によって決定される関係と見なすよう強制しているのです(さもないと、パリのエッフェル塔がニューヨークにあっても「同一の物」と見なさなければならないからです)。(2016.4.17訳出)

たとえば、私が思うに、この形而上学恐怖症が「物」を「質の集まり」と見なすよう強制し、しかも「質」そのものは感覚的に理解されるものでなければならないとしているのです。(2016.4.11訳出)

ラッセルが最近発表した著書『意味と真理』(「Meaning and Truth」)で行った機知に富んだ分析には感動しますが、しかし、にもかかわらず、ここでも形而上学恐怖症のにおいが何らかの弊害をもたらしているとやはり感じます。(2016.3.29訳出)

この危機は、現代の経験主義的哲学が一種の病に掛かって、宿命的な「形而上学恐怖症」に陥ったことに原因があります。実は、この恐怖症は、感覚的な理解を無視し、これがなくても理解できると考えられていた、かなり昔の哲学と双子の関係にあります。(2016.3.21訳出)

ここで言おうとしていることは、これからお話することでご理解いただけますでしょう。ヒュームは自分の明快な批評で哲学の発展に決定的な一撃を加えただけでなく、また、哲学にとって危機とも言うべき状況をもたらしました(とは言え、ここに彼の責任はありません)。(2016.3.12訳出)

また、この「概念体系」は、(論理的に)任意に与えられたゲームの規則に従う記号を持った自由な(任意の論理的に可能な)ゲームでもあります。ここに述べたことは、日常生活における思考にも、またきわめて意識的かつ体系的に組み立てられた科学的思考にも応用できるでしょう。(2016.3.5訳出)

思考が「形而上学」や意味のない無駄話に退化しないようにするためには、概念体系の中にある多くの見解を感覚的な理解としっかり結び付けなければなりません。ただし、ここで言う概念体系とは、感覚的な理解を整理し、これを吟味するために使われるもので、出来るだけ統一的かつシンプルに構築されている必要があります。(2016.2.22訳出)

私は後者の主張(思考は感覚的な理解と結び付いた時にはじめて物質的な内容になるということ)は完全に正しいと思います。しかし、これを基にして指示が出され、ある思考が思考領域から排除されるとすれば、それは間違っています。もしこれを徹底的に行ったなら、すべての思考を「形而上学的」としてことごとく排除してしまうことになるからです。(2016.2.14訳出)

ヒュームの批判を支持する立場に立つと、感覚的な理解によって導かれない概念や見解は、それが「形而上学的」な性質を持っているため、思考から取り除かれねばならないという考えに容易にたどり着きます。なぜなら、思考は感覚的な理解と結び付いた時にはじめて物質的な内容になるからです。(2016.2.6訳出)

しかし、日常生活の単純な概念を考察するようになればなるほど、複雑な習慣の無数の概念の中から独立した思考の産物を見出すことが難しくなります。そしてここで発生するのが宿命的な(現在の物の状態を理解するために致命的な)考え方です。すべての概念は「抽象化」の方法によって、つまりその内容のある部分を切り捨てることによって感覚から得られるという考え方がそれです。それでは、ここで、この考え方が私にとってなぜ宿命的に思えるのか、この点を詳しくお話することにしましょう。(2016.1.31訳出)

たとえば、自然級数は明らかに、ある種の感覚を簡単に整理する方法を創り出した人間の知性が発明したものです。しかし、この概念を私たちの感覚から直接導き出す方法となると、それは存在しません。私はここで数の概念を特別に選びました。なぜなら、この概念は、科学以前の思考に関係し、にもかかわらず、簡単に気付くように、構造的な性質を持っているからです。(2016.1.16.訳出)

このこと(思考過程で発生する概念は知性の自由な創造物であること)はたった次の理由から簡単には分かりません。それは、この問題に純粋に論理的にアプローチするにしても、私たちが一定の概念や見解をある種の感覚と強く結び付ける習慣を持っているため、感覚的に理解される世界が不透明な壁によって概念と見解の世界と切り離されていることに気付けないでいるということです。(2016.1.3訳出)

私は実際には、さらにもっと大切なことを主張すべきだと思います。つまり、私たちの思考過程や言葉で表現することによって発生する概念のすべては、純粋に論理的な観点からすると、感覚から得ることの出来ない知性の自由な創造物である、ということです。(2015.12.27訳出)

もちろん現在は上(注:ここでは「下」)に挙げた概念は、だれもが知っているように、カントが考えていたような確実性も内的な必然性も持っていません。しかし、私の考えでは、カント流の次のような問題提起、つまり、論理的な観点から考察する場合、思考過程の中で私たちはある種の「根拠」に基づいて、感覚と関連しない概念を使っている、という考えは正しいと思います。
(2015.12.20訳出)

もし私たちが信頼できる知識を持っているとすれば、それは純粋な思考に基づいたものでなければなりません。たとえば、幾何学の定理とか因果関係の原理と関連したものがそうです。これらのタイプの知識は、いわゆる、思考手段の一部ですから、したがって、初めに感覚から得られることはありません(つまり、これらはア・プリオリな知識なのです)。(2015.12.12訳出)

ここで登場するのがカントです。彼が提案した考えは、そのままの表現形式では受け入れられないものでしたが、しかし、ヒュームのジレンマ、つまり、「経験主義的に発生しているものすべてをことごとく認識することはできない(ヒューム)」という問題の解決に向けての一歩となるものでした。
(2015.12.5訳出)

人は信頼のできる知識を求めます。正にそれゆえに、ヒュームの役割は失敗に終わったのです。私たちの唯一の認識の源である感覚器官から入ってくる未加工材料は私たちを徐々に信じたり、期待したりするようにはできても、しかし、それを認識したり、ましてや法則として理解したりするようにはできないからです。(2015.11.28訳出)

ヒュームは自分の後に生きた優秀な哲学者たちの発展に影響を与えています。彼の精神は、ラッセルの哲学の論文を読む時にも感じられます。彼の正確で簡潔な表現がしばしば私にヒュームを思い出させるのです。
(2015.11.22訳出)

物事をこのように(下記のように)解釈したため、ヒュームはあらゆる種類の知識に対して懐疑的な態度を取るようになりました。ヒュームの著書を読むと、いかに多くの(しかも時にひじょうに尊敬すべき)哲学者が彼の後でどれほど無知なことを書いていることか、また自分の文章を好意的に理解してくれる読者をよく見つけることが出来たものだと驚かれることでしょう。(2015.11.15訳出)

ヒュームは、(たとえば、因果関係のような)本質的なものと見なさねばならない概念は私たちの感覚によって与えられる素材からは得られないと考えていました。(2015.11.7訳出)

大体ではありますが(しかも、まだ漠然とした表現になっていますが)、おそらく、現在はこれ(2015.10.26の文)が一般に受け入れられている見解です。しかし、これは、純粋な思考だけで現実を認識することが不可能であることを実際に誰かが証明したという事実を基にして得られるものではなく、むしろ、(上に述べた意味で)経験主義的な手法によって知識が源となり得ることがすでに証明されているという考えを基にして得られるものです。これを原理として完全に明快な、正確な形ではじめて提出したのがガリレイとヒュームでした。(2015.10.31訳出)

そして、物に関する私たちの知識はすべて私たちの感覚器官によって得られる加工された原料だけで出来ていると次第に考えられるようになって行きました。(2015.10.26訳出)

しかし、正に同じ物理学的な思考方法を実際に使用し、成果が得られるにつれ、純粋に思弁的な手段で物および物と物の間の関係を認識できるという自信が揺らぎはじめました。(2015.10.17訳出)

なぜなら、もし、たとえ大ざっぱであっても、物理学的な思考方法に疑いを抱くなら、対象を主観から切り離し、「対象の存在」を問題として考えさせるようなものを、対象とそれを観察する行為との間に導入する必要性がまったくなくなるからです。(2015.10.11訳出)

バークリが、私たちの感覚器官が直接理解しているのは外界の「対象」ではなく、これらの対象の存在と因果関係的に結ばれている過程だけであるという考えから出発しているとすれば、物理学的な思考方法が正しいと私たちが判断しない限り、彼の考えが正しいと確信することは出来ません。(2015.10.3訳出)

見事なまでの表現形式であることは言うまでもなく、その他にもこの文章は私がこれまでに出会ったことのない内容を語っています。実際、表面的に考察しただけでもバークリとヒュームの思考方法は自然科学で採用されている思考方法とはっきり異なっているように感じます。ところが、これらの思考方法の間の関係はここに引用したラッセルの文章によって明らかになるのです。(2015.9.27訳出)

「・・・このことから、科学が自らと闘っていることが分かります。科学は、全力を挙げて客観的であろうとしながら、自分の意志に反して主観主義の中に埋もれているからです。素朴リアリズムから物理学が導かれていながら、ところが、物理学は、もし物理学が正しいなら、素朴リアリズムは間違っていると結論しているのです。もし素朴リアリズムが真であるなら、素朴リアリズムは偽である。したがって、それは偽であると。」(2015.9.19訳出)

「・・・私たちは、草は緑で、石は固く、また雪は冷たいと思っています。しかし、物理学は草の緑色、石の硬さ、冷たい雪は私たちが経験的に知っている緑色、硬さ、冷たさではなく、何かひじょうに異なったものであると私たちに教えます。観測者は、自分が石を見ているように思えるとき、実際は、もし物理学を信じるなら、石が彼に対して及ぼしている影響に関連した効果を観察しているのです。・・・」(2015.9.12訳出)

この2つの幻想を克服しようとするとき、これらが互いに独立していると考えてはいけません。素朴リアリズムを克服することは比較的簡単でした。論文『意味と真理の探究』(An Inquiry into Meaning and Truth)の序文でラッセルはこの過程に次のような驚くほど美しい特徴を与えいます。「私たちはみんな『素朴リアリズム』、つまり、すべてのものは正に私たちが見るがままにある、という説から始まっています。私たちは、草は緑で、石は硬く、また雪は冷たいと思っています。・・・」(2015.9.5訳出)

純粋な思考は限りなく透明であるという貴族的な幻想にはその分身がいます。すべてのものは私たちの感覚が理解するままの形で「存在」していると素朴リアリズム的に考えるひじょうに庶民的な幻想がそれです。人間や動物の日常生活の中では正にこの幻想が支配しています。そして実は、この幻想がすべての科学、特に自然科学の出発点になっているのです。(2015.8.30訳出)

もちろん、この幻想(注:プラトンの「イデア」のこと)やこれに類するものに頼らないで、哲学的な思考領域ではたして何がしかの大きな成果を上げることが出来ていただろうかと問題を提起することも出来ます。しかし、私たちはこれからこのような質問はしないことにしたいと思います。(2015.8.23訳出)

プラトンが「イデア」を私たちが経験的に理解するもの以上に現実的なものと見なしていたということを知っても、驚かれない人がいます。スピノザにとって、またヘーゲルにとってさえも、この偏見は重要な役割を果たすために必要な活力でした。(2015.8.15訳出)

哲学が幼年時代を過ごしている頃、ただ純粋な思考のみを使ってすべてを都合のいいように認識できると一般に信じられていました。これが幻想であることは、最新の哲学や自然科学によって私たちが知っているものを一瞬拒否するだけで簡単に理解できます。(2015.8.8訳出)

ここで、私たちが今哲学者として不法な概念を導入するために、カギカッコを使っていますので注意してください。哲学の警察の目からすると概念として疑わしいものであっても、これをしばらく使用することをお許し願いたいと思います。(2015.8.1訳出)

しかしそれでも、比較的無益な、そうでありながら、壮烈な努力の中に、1つの一貫性のある発展的意図を見出すことが出来ます。それは、(「概念と観念」だけの世界とは異なる)「客観的な世界」のことを純粋な思考だけで知ろうとするあらゆる試みに対しては懐疑的な態度が増大するばかりだということです。(2015.7.25訳出)

純粋な思考に基づいた認識は可能でしょうか。もし不可能であるとすれば、私たちの感覚である未加工材料と認識との間にどのような関係があるのでしょうか。この問題およびこれと密接に関連している別のいくつかの問題を考えるだけで、哲学的な見解がほとんど限りなく混乱していることが分かります。(2015.7.18訳出)

数世紀にわたる哲学的な考えの発展過程おいては、次の問いがもっとも重要な意味を持っていました。それは、感覚的な理解に頼らず純粋な思考だけで認識できるか、ということです。(2015.7.12訳出)

この論文では物理学者が個人的に抱えている問題について深く立ち入る予定はありませんが、ところがどうでしょう、あれこれ別の問題を考えるよりこの問題の方を少しじっくり考えただけで、これから文章を簡潔に述べることになるであろう視点に立っているではありませんか。(2015.7.4訳出)

現在、物理学者は前の世代の物理学者より哲学的な問題に大きく関心を払わねばなりません。しかも、物理学者がそれぞれ独自にテーマとする科学の難しい問題がこれに加わるのです。(2015.6.27訳出)

しかし、自信を持ってこの役を引き受けたのはいいのですが、やがて、認識論に対していかなる経験も持たずに、このあぶなっかしい領域に首を突っ込もうとしていることに気付きました。原因は、自分の活動領域を先を見越して物理学に限っていたことにあります。(2015.6.22訳出)

私は現代の科学者の中ではTh・ヴェブレンの他にこのようには(注:ラッセルに対して述べたように)言えませんでした。しかし、私はやがて約束することがそれを実行することよりどんなに気楽であるかを知ります。私は認識論を研究している哲学者・学者としてラッセルについて考えを述べることを約束したのでした。(2015.6.13訳出)

編集者からバートランド・ラッセルについて何か書いて欲しいと要請があったとき、この学者に感服し、尊敬していたことから、私はすぐにこれを承諾しました。私はバートランド・ラッセルの論文を読むことで多くの幸せな時を過ごしました。(2015.6.8訳出)

**********

※以下「私の信条」(1932年)でした。

この(理性で理解できないものを受け入れる能力も信仰心であるという)意味で私は信心深い人間です。これらの神秘を驚嘆しながら推測すること、またこの世に存在するものすべての完全なる構造の不完全なる光景を頭の中に素直に思い描くこと、これで私は満足です。(2015.5.31訳出)

この感覚(神秘を感じること)を経験したことのない人は、もし**でないなら、いずれにしても、失礼な表現ですがかなり**が悪くていらっしゃる方だと思います。直接的な体験の下に隠されていて、その美しさと完全さが間接的な弱い響きとしてしか私たちのところに届かないような、そのような私たちの理性では理解できないものを受け入れる能力、これもまた信仰心なのです。(2015.5.24訳出)

人の身に降りかかるもっとも美しく、奥深い体験、それは神秘を感じることです。宗教や芸術、科学のもっとも奥深い構想の土台にはこれが横たわっているのです。(2015.5.17訳出)

日常生活においてたとえ私が典型的な個人主義者であっても、それでも孤独感におそわれずに済んでいるのは、真理や美、正義を求める人々と目に見えない共通点を持っているという意識があるからです。(2015.5.11訳)

一人ひとりが社会的に平等であること、経済的に幸福であることが、国によって統治される社会の重要な目標だという考えがいつも私の頭に浮かんでいます。(2015.5.2訳出)

社会的な地位や財力によって作られる特権は、過度な個人崇拝と同じくらい不公平であり、また危険極まりないとつねに思っています。私は国家の民主主義的形態の欠点をよく知っていますが、しかしそれでもこれが理想的だと考えています。(2015.4.25訳出)

このため(暴力や人格を無視する振る舞いに対して憎しみを抱いたりするため)、私は熱烈な平和至上主義者、あらゆる民族主義を拒否するたとえそれが愛国心の役割を果たしているとしても、それを拒否する反軍国主義者となりました。(2015.4.19訳出)

どう考えてもどうしても必要だと思えない関係や依存関係に対して否定的な態度を取るため、また社会正義を求めるあまり、私はしばしば人々と衝突しなければなりませんでした。もちろん今でも、個人に対しては尊敬の念をつねに忘れませんが、しかし、暴力や人格を無視する振る舞いに対しては抑えがたい憎しみを抱いています。(2015.4.9訳出)

私はこれまで幸福な暮らしとか贅沢な生活を決して求めませんでした。どちらかと言うと、このような生活に対しては今でも無頓着だと思います。
(2015.4.3訳出)

私は、自分の人生の中のひじょうに多くのものが周りの人々のご苦労によって支えられているという思いにしばしばおそわれ、その結果として、多くのことでどんなに彼らのお蔭を被っていることかと感謝するのです。
(2015.3.29訳出)


しかし、この独立した立場を手にしているとは言え、過去の世代の人々、現在元気に暮らしている世代の人々、それから未来の世代の人々と私たち科学者とをしっかり結び付けている義務を忘れるべきではありません。
(2015.3.21訳出)

不変的な意味を持つ客観的な事実を深く考え、研究することにすべての力を注げる人間の一人であることに格別なる名誉を感じております。個人的な宿命や周りの人々の行為からほとんど独立できるこの名誉に私もある程度浴していることを、どんなに喜んでいることでしょう(2015.3.14訳出)。

**********

※以下は「宗教と科学」(1930年)でした。

私たちと同時代のある科学者が、この物質主義的な時代にあってまじめな科学者となり得るのは深く信じる心を持った研究者だけであろうと語っていますが、根拠があってのことなのです。(2015.3.10訳出)

自分の人生を同じ目的に捧げている人だけが、どうしてこのように(さまざまな地域に散らばっている)研究者を励ますことができるのでしょうか、また何が、たとえどんなに失敗が続いていようと、自分の研究方向は間違っていないと信じる力を彼らに与えているのでしょうか。その素質を持っている彼らが宇宙宗教的感情の中からこの力をくみ上げているからです。(2015.3.1訳出)

●地球上のさまざまな地域に散らばっている研究仲間に、懐疑的な人々に囲まれながらも、研究の方向性を指示出来る人がここにいるとしましょう。実は、科学的な研究を主に自分の研究結果で判断する科学者は、このような人の精神的な世界について完全に間違えて理解しているケースがけっこうあります。(2015.2.22訳出)

ケプラーとニュートンが天体力学の基本原理の解明に向けて何年も粘り強く研究できたのが合理性のおかげであるとすると、彼らは宇宙の構造が合理的であるとどれほど深く信じ、この宇宙に現れている合理性のほんの小さな煌めきをさえ理解しようとどんなに渇望していたことかを窺い知ることができます。(2015.2.15訳出)

これまでのお話から、なぜさまざまな教会がいつも科学と対立し、科学の信奉者を迫害していたかを簡単に理解できます。しかし、ここで別の観点から、私は宇宙宗教的感情は科学的研究の原動力の中でもっとも強力かつ高尚なものであると断言します。ふだんの生活とかけ離れた研究を自然に生み出してしまうこの感情がどれほど強力なものであるか、これは新しい道を切り拓く科学的研究を出現させるような想像を絶する努力と献身的精神を正当に評価できる人にしか理解できません。(2015.2.8訳出)

このため(人が道徳的に振る舞うため)には、いかなる宗教的な下地もまったく必要ありません。もし恐怖とか罰の力、あるいは功績によって与えられる死後の世界への期待、これだけで人が生きているとしたら、人はさぞかしい醜い存在だったに違いありません。(2015.1.31訳出)

このこと(因果関係の仮説を信じている人は功績に報いたり、罪を罰したりする神の存在を信じられないこと)を根拠に、たとえそれが正しくないとしても、科学は道徳に傷を付けたと非難する人がいます。実際には、人は思いやり、教養、社会的関係を基に道徳的に振る舞わねばならないのです。(2015.1.17訳出)

確認しますが、因果関係の仮説を本気で考えている人にとってはこれ(宇宙で起こっている事件に途中から介入できないこと)は当然のことです。このような人には恐怖の宗教を少しも必要としません。また、彼には社会的、道徳的宗教も必要ありません。人の行為は外的および内的必然性によって決定されるので、無生物が自分で行っている行為に責任が取れないように、人は神に対して自分の行為の責任を負うことが出来ないという単純な理由から、功績に報いたり、罪を罰したりする神は彼には考えられないのです。(2015.1.10訳出)

ここでいつもとひじょうに異なった観点から科学と宗教の関係を考えてみましょう。この関係を歴史的な観点から考察すると、科学と宗教は明白な理由によって互いに相容れない対立するものと見なさねばなりません。因果関係の法則の効果の万能性を完全に信じている人にとっては、宇宙で起こっている事件に途中から介入出来るものが存在するという考えは絶対にあってはならないからです。(2015.1.4訳出)

もし宇宙宗教的感情が神の概念も、また神学をも完成させていないとすると、この感情はいったいどのようにして人から人に伝えられるのでしょうか。私はこの感情を体験できる人がこれに目覚め、これを維持しようとすること、ここにこそ芸術と科学のもっとも重要な役割があると思います。(2014.12.28訳出)

宗教の天才は、いつの時代も、人に似せて創造された神もドグマも知らない、この宇宙宗教的感情が際立っています。だから、この感情を教義にして建てられた教会は存在しないのです。また、このことから、この感情の影響を著しく受け、同時代の人たちにしばしば無神論者とか、時には聖人と思われていた人たちがつねにかならず異端者と見なされていたことが分かります。この観点から、デモクリトス、アッシジのフランチェスコ、スピノザのような人たちが多くの共通点を持っていたと言えましょう。(2014.12.20訳出)

このような宇宙宗教的感情の萌芽は、発達の早期の段階、たとえば、ダビデの讃美歌や旧約聖書の預言者の書物の中に見られます。そして実は、この感情の極めて強い要素は、ショーペンハウエルの研究が私たちに教えているように、仏教の中にも存在しているのです。(2014.12.13訳出)

人の中には、一方で、人間の願望と目的をつまらぬものと感じ、またその一方で、自然やイデーの世界に現れるものに気高さや奇跡的な秩序を感じる者がいます。いつしか、彼は自らを一種の幽閉状態に置き、そして宇宙全体を何か統一された、意味のあるものだと理解するようになるのです。(2014.12.6訳出)

私はこの三番目の宗教的感情を「宇宙宗教的感情」と呼んでいます。この感情に縁のない人に、これがどのようなものなのか、特に、この感情にふさわしい人格神的な概念が存在しないということを説明するのはとても難しいです(2014.11.29訳出)。

これらのタイプの宗教の場合、神のイデーは一般に人格神的な性格を持っています。もしこのレベルの神を超えられるとすれば、それは個人的に特に優れた人物と特に高度に発達した社会によるものです。しかし、純粋な姿で現れることはありませんが、実は、さらに、三番目としての宗教的な感情があるのです。(2014.11.22訳出)

原始人の宗教は純粋に恐怖の宗教であり、文明化した民族の宗教は純粋に道徳的な宗教である、という誤った考えには注意しなければなりません。社会生活がより高度な発展段階にある点で道徳的な宗教が優位を占めているだけであって、どちらの宗教も混ざり合ったものだからです。(2014.11.16訳出)

すでに聖書の中で恐怖の宗教から道徳的な宗教への変化の跡をたどることが出来ます。この進化は新約聖書の中でも続いています。文化的な民族、特に、東洋民族の宗教は、本質的に道徳的な宗教です。人々の暮らしの中では恐怖の宗教から道徳的な宗教への変化は重要な進歩でした。(2014.
11.9訳出)

神は摂理で人を守り、人の運命を支配し、人をねぎらい、罰する存在です。神は人の観念にしたがって、民族、人類の生命、もちろんこの言葉の広い意味での生命を守る守護者であり、不幸や叶わぬ願いがあればそれを慰める者、そしてさらに死者の魂を鎮める守護者でもあります。つまり、これが神の社会的、道徳的な概念です。(2014.10.19訳出)

集団的な感情も宗教様式の源になっています。父や母、あるいは大きな集団のリーダーが死んだ時に発生する誤解がそうです。指導とか愛、あるいは心の支えを求める気持ちが切っ掛けとなって社会的、精神的な神なる概念が生まれるのです。(2014.9.27訳出)

なお、地位が別の要因で決定されるリーダーとか支配者、あるいは何らかの特権階級が上流階級の権力と司祭者の役割を結び付けたり、あるいは、政治的支配階級が共通の利益を達成するために司祭者集団と手を結んだりすることがよくあります。(2014.9.20訳出)

この(生け贄[いけにえ]などを捧げる恐怖の)宗教は、主導権を持って人と人が恐れる生きものとの間の仲介役をする特殊な司祭者集団ができることによって目覚ましく安定します(ただし、安定であって、発生ではありません)。(2014.9.6訳出)

この生きものの心を鎮めるため、あるいは人間に対してもっと寛大になって
もらうために、信仰として代々伝えられている、ある決まった行為をしたり、生け贄を捧げたりしています。この意味で、私は今恐怖の宗教について語っていると言えます。(2014.8.19訳出)

原始人の場合、宗教的な考えはまず飢えとか野獣、病気、死に対する恐怖から発生します。このような生活環境の段階では相互の因果関係を理解する度合はふつうはひじょうに低い水準にありますから、恐ろしい現象の意思と行為が結び付いていると考えられるものと似た生きものが理性的にまず作られます。そして、それから、この生きものの心を鎮めるための行動に移ります。(2014.8.11訳出)

人はいったいどのような感情や欲求によって宗教的な考え、信じるというもっとも広い意味での信仰心を抱くようになったのでしょう。この問題をほんの少し深く考えただけで、宗教的な考えや体験のゆりかごの中にまったく異なった感情が入っていることに気付くことでしょう。(2014.8.3訳出)

人が創ったり考え出したりするものはすべて、欲求を満たすこと、痛みを和らげることと関連しています。宗教の運動やその発展について考える時は、このことをかならず頭に置かねばなりません。感情や願いは、それがいかに高尚なものであろうと、つきつめると人が抱く熱望、達成を願う気持ちの根底にあるものなのです。(2014.7.26訳出)

**********

技術が現在のように進歩する上で、知的な手段は欠かせませんでした。実は、この手段は基本的に星を観測することによって誕生しました。現在、ニュートンのような独創的な研究者は、彼らの考えに勇気を与えていた星自身がそうであったように、この技術の悪用にほとんど責任を負っていません。知的価値がルネッサンス時代のように尊敬されなくなっている現在、これだけはどうしても強調せねばなりません(1927年発表)。(2014.7.19訳出)

これまでニュートンの統一された世界の概念を別の統一された概念に置き換えることに成功していません。しかし、そうでありながら、私たちがこれまでに手に入れたものは、おそらく、ニュートンの明快な体系がなければ獲得できませんでした。(2014.7.12訳出)

しかし、この期待は実現しませんでした。また、今ではこれ(注:距離を置いて作用するいろいろな種類の力と質点を導入することによって作られた運動法則)を基にすれば私たちが抱えている問題がことごとく解決するとはだれも考えていません。にもかかわらず、現代の物理学者はニュートンの基本的な概念の影響を著しく受けているのです。(2014.7.5訳出)

しかし、他の物理学はどうだったのでしょう。重力と運動法則だけですべてを説明できませんでした。固体の成分はどのようにして平衡になるのでしょうか。光と電気の現象をどのように説明できますか。距離を置いて作用するいろいろな種類の力と質点を導入すれば、運動法則から満足できる形ですべてを導き出せるように思えたことは確かでした。(2014.6.28訳出)

ニュートンは重力の現象が距離の2乗に反比例する力で説明できることを発見しました。こうして目的は達成されました。と同時に、新しい科学が誕生しました。ニュートンと彼に続く研究者たちによって何回も裏付けられた天体力学がそれです。(2014.6.21訳出)

ところが、ニュートンはこのような(重力の)実験を自由にすることができました。月の軌道上での加速度は分かっていましたので、これと地球の表面で自由に落下する物体の加速度とを比較できたのです。もっとも、太陽の周りの惑星の運動がケプラーによってひじょうに正確に決定されていました。彼はこれらの運動を経験則として簡単にまとめていたのです。つまり、地球や太陽から出ている重力が距離にどのように依存しているかを明らかにする準備がすでにできていました。(2014.6.14訳出)

重力が物体と物体の間の距離にどのように依存しているか、これは分かりません。これをア・プリオリに知ることはできません。ここで役に立つのは実験のみなのです。(2014.6.6訳出)

この(重力の)効果を正確に知るためには、一定の質量を持った二つの物体を一定の距離だけ離して置き、そしてこれらの間に作用する力の大きさを求めることです。作用する力の方向は、明らかに、これらを結ぶ直線と一致しています。(2014.5.24訳出)

(物体が空間を介して互いに作用し合っている力は、ある種の定量的な特性、つまり質量によって発生している可能性がありました。)なぜなら、この質量こそが力学的な観点から物体を特徴付けていると考えられたからです。こうして、距離をなして物体に作用するこの不思議な力は重力と名付けられました。(2014.5.13訳出)

(物体が空間を介して互いに作用し合っている)これらの力は速度に依存していません。つまり、これらの力はこれらの力を強める物体と物体の相対的な位置、およびこれらの物体のある種の定量的な特性にのみ依存しなければなりませんでした。そして実は、この特性は質量によって発生していると考えられるものでした。(2014.5.3訳出)

(地球を多くの部分に分割できることから、それぞれの部分が落下する物体に作用し、これらすべての効果がたし算されているという考えがガリレイの頭に必然的に浮かんで来ました。)すると、物体そのものの存在が原因となって発生する力があって、この力で物体が空間を介して互いに作用し合っているように見えるではありませんか。(2014.4.27訳出)

ガリレイによると、加速度は物体の性質と速度に依存していません。地球が加速度の存在に決定的な役割を果たしていることは明らかでした。このことから、地球が地球そのものの存在で物体に影響していると考えられました。また、地球を多くの部分に分割できます。このことから、それぞれの部分が落下する物体に作用し、これらすべての効果がたし算されているという考えが必然的に出て来ました。(2014.4.20訳出)

物体が空間中を落下している場合はどうでしょうか。自由落下している物体は、運動だけに目を向けると、質点と同じように単純に振る舞っています。それは下に向かって加速しているのです。(2014.4.12訳出)

私たちが摩擦のない水平な平面上で荷車を押すとき、作用する力はそれに直接加えられます。これは理想的な場合ですが、実は、ここから運動法則が導かれます。ここでは質点は関係していませんが、はたしてそれほど重要でないからでしょうか。(2014.4.6訳出)

宇宙の物体が互いに引き起こすさまざまな巨大な作用に注意を向けたとき、知性的にニュートンのような大胆さを持っていなかったガリレイは、この力を発見する問題は解決しないだろうと思いました。まして、私たちが運動を考察する物体は大きさを持っているのであって、つまり質点とは考えられないのです。ニュートンはいったいどのようにしてこのカオス的な研究に成功したのでしょう。(2014.3.29訳出)

運動の法則によって物体の運動が決定されるのは、あらゆる瞬間の物体に作用する力の大きさと方向が分かっている場合だけです。したがって、これに関連して(ガリレイが解決できなかった)問題を表現すると次のようになります。それは作用する力をどのようにして見つけるか、ということです。
(2014.3.22訳出)

ここに述べた(質量に関する基本的な概念についての)内容は、きわめて控えめに、それでいて正確に表現されています。本質がガリレイによってすでに知られていたからです。しかし、ガリレイにはどうしても解決できない重要な問題がありました。(2014.3.16訳出)

こうして(微分・積分法を発見することによって)ニュートンは、物体の加速度の大きさと方向が正確に一定なら、その加速度は物体に作用する力に比例するという仮説を引き出しました。物体を加速させる能力を特徴づける比例係数は、(大きさのない)物体の力学的な特性を完全に記述しています。実は、この思考過程を経て発見されたのが基本的な質量の概念でした。(2014.3.8訳出)

微分・積分法の発見はそれだけでも第一級の独創的成果でした。しかし、物理学者としてのニュートンにとっては、運動の一般法則を公式化するために必要とする新しいタイプの認識上の言語を発明したにすぎませんでした。(2014.3.1訳出)

この主張(下記の仮説)から定量的な結果を求めるためには、まず、大きさの持たない物体(質点)が運動している時の速度及び速度の変化、つまり加速度の概念を数学的に解釈しなければなりません。この問題によってニュートンが発見したのが微分・積分法の基礎でした。(2014.2.22訳出)

ガリレイはもっとも簡単な実験事実をうまく解釈することによって、次のような仮説を立てました。それは、外力が作用していない物体は初めの速さ(および、その方向)を一定に保っている。もし物体が速度(つまり、運動方向)を変えたなら、その変化は外からの原因によるものである、ということです。(2014.2.15訳出)

知的活動の目的はすべて「奇跡」を理解することにあります。今ここで、もし奇跡がこのような変化を受けていないとすれば、それは私たちがニュートンの思考力の素晴らしさに感動しはじめたばかりだからです。(2014.2.8訳出)

この疑問は、たとえ読者の皆さんが私を許してくれたとしても、やはり非論理的でした。なぜなら、もし私たちの知性がこの「どのようにして」という疑問を解決していたなら、言葉本来の意味から言って奇跡はすでに存在していないはずだからです。(2014.2.1訳出)

彼の弟子や信奉者たちは18世紀の終わりまで、ニュートン以上に自信を持ってそのように(ニュートンが発見した力学の基本原理を使えば、あらゆる現象を理解するカギが与えられると)考えていました。それにしても、この奇跡はいったいどのようにして彼の脳に芽生えたのでしょう。(2014.1.25訳出)

ニュートンは、数学的な思考方法を使うことによって広い範囲の現象を実験と定量的につじつまが合うように記述することを論理的に可能にする基礎をはっきりと定式化することに成功した最初の人でした。時が来れば自分の力学の基本によってあらゆる現象を理解するカギが与えられるであろうと彼が実際に思っても不思議でありませんでした。(2014.1.19訳出)

ニュートンのはるか以前から、私たちが感覚で理解する現象は簡単な物理学的な仮説から純粋に論理的に演繹する方法を使うことによって納得がいくように説明できる、と強く考えられていました。しかし、ここでニュートンが登場します。(2014.1.11訳出)

ニュートンについて考えるということは、すなわち、彼の創作について考えるということです。このような人間は、永遠の真理を求めて闘いを展開している場面の中でその人を描くことによってはじめて理解されるものです。(2014.1.4訳出)

しかし、知性の創造物は世代のセンセーショナルなから騒ぎに耐え、そして何世紀にもわたって光と熱で世界を照らしているのです。この考えを慰めとして、300年前に人類に送られたニュートンを追憶し、当時の動乱時代に戻ってみましょう。(2013.12.28訳出

知性の前に立ちはだかっている問題を考えるとき、私たちには、疑いなく、知性の方が弱いように思えます。これは認めねばならないことですが、大なり小なり人の運命をほぼ完全に支配している無謀な行為や恐怖にそれを対立させたとき、知性の方が特に弱く見えます。(2013.12.21訳出)

私たちの彼(プランク)に寄せる好意には平凡な根拠など必要ありません。彼が科学に注ぐ愛情が自らの人生をも飾り続けますように。それから、彼が提起し、目覚ましく発展した私たちの時代のもっとも重要な物理学の問題がどうかその愛の導きで彼自らの手で解決されますように。量子力学、電気力学、力学が彼によって論理的に均整のとれた体系として統一されることを祈ります。1918年.(2013.12.14訳出)

私たちの大切なプランク、彼はここに私たちと一緒にいます。彼はディオゲネスのランプを使った私の子供じみたトリックを見て、笑みを浮かべているのです。(2013.12.7訳出)

(研究をはかどらせる精神状態は宗教心とか人を恋する心に似ています。)日々のたゆまぬ努力は何らかの意図や計画からではなく、直接的な欲求を源にしているのです。(2013.11.30訳出)

同僚たちが彼(プランク)が研究にひたすら没頭できたのは意志が異常に強く、律儀な性格のためだと言っているのをよく耳にしましたが、しかし、彼らは正しくないと思います。研究をはかどらせる精神状態は宗教心とか人を恋する心に似ているのです。(2013.11.23訳出)

つい数年前にマッハとプランクとの間で行われた論争の原因もここ(注:「予定調和」)にあるように私には思えます。
 私たちも知っているように、この予定調和を見たいという熱い願いこそが根気と絶えることのない忍耐の源なのであって、これがあったればこそプランクはもっと打って付けの、簡単にできる目標に惑わされることなく、科学の一般的な問題にひたすら没頭できたのです。(2013.11.16訳出)


物理学者たちは認識論を研究している研究者たちを、この「予定調和」を十分に考え尽くしていないと本気で非難しています。(2013.11.9訳出)

ここ(理論体系が観測実験によって一義的に決定されることを理論研究を究めた人の誰一人として否定していないこと)にはライプニッツがうまく名付けた「予定調和」の本質が入っています。(2013.11.2訳出)

いかに論理的な方法であっても観測から理論的基本原理が導かれないにもかかわらず、理論体系が観測によって実際に一義的に決定されるということ、このことを真に研究を究めた人の誰一人として否定していません。(2013.10.26訳出)

原理的に言って、この考え(直観の不確定性によって理論物理学に等価な系が任意の数だけ存在すること)はもちろん正しいです。しかし、歴史が示しているように、あらゆる思考体系のうちある瞬間に優勢になれるのはただ一つなのです。(2013.10.19訳出)

直観には方法論的に不確定性があります。したがって、理論物理学には等価な系が任意の数だけ存在すると考えられます。(2013.10.12訳出)

ただ、論理的な方法ではこれらの(自然界の光景を見渡せるような)法則は導かれません。実験の本質を見抜く力によって育まれる直感のみです。(2013.10.5訳出)

この(自然界で起きている自然現象の完全性を断念することは原理でない)ことから、次の結論が導かれます。それは、純粋に演繹する方法で自然界の光景が見えるような一般的な基本法則を探すことが物理学者の最高の義務だということです。(2013.9.28訳出)

(自然界で発生しているすべての出来事から純粋に演繹する方法で自然界の光景、つまり、生命を含めたあらゆる自然現象を理論的に導くことができます。)つまり、自然界の物理学的光景の完全なる描像を断念することは原理ではありません。(2013.9.21訳出)

もし演繹法の過程が人間が創造的に考えられる範囲をそれほどはみ出していないなら、自然界で発生しているすべての出来事から純粋に演繹する方法で自然界の光景、つまり、生命を含めたあらゆる自然現象を理論的に導き出すことができるのです。(2013.9.14訳出)

(自然界における不十分な研究の結果に「自然界の光景」などといった大それた名称を付けていいものか、これに対して)私は「イエスだ」と答えましょう。なぜなら、理論物理学の思考体系の土台に横たわっている一般的な命題は自然界で発生するすべての出来事にとって真でなければならないからです。(2013.9.7訳出)

(自然界の片隅に小さくなって潜んでいるもっとも高度に洗練された、複雑な現象を研究するとなると、それで十分とは言えません。)はたして、このような研究結果に対して「自然界の光景」などといった壮大な名称を付けていいものでしょうか。(2013.9.3訳出)





※ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。これまでの文章はもう一度訳し直して掲載します。しばらくお待ちください。田井





※ご注意:上記の文章はアインシュタインの文献から実験的に直接翻訳しています。


☆こちらより退出願います:http://inter-tai.com/
 または、
「えどがわ産業ナビ」: http:edogawanavi.jp/

information

科学啓蒙作家の塾「田井塾」

〒133-0051
東京都江戸川区北小岩3-25-19
TEL.03-3671-1002