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江戸川のほとりにて
科学啓蒙作家の塾「田井塾」
44年
見出し
「田井塾」愛実践:民生−ことばの泉−
見出し
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愛:ことばの泉
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・・・・・ 序 奏 ・・・・・
●モーツアルト●・・・・・「フルートとハープのための協奏曲ハ長調K.299」
♪・・・第2楽章:アンダンティーノ・・・♪
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はじめに−民生委員として−:
私は現在大げさに言えば、人類がこれまで経験したことのない「壮大」な実験をしていると思います。それは人が対人的に抱える内面的な心理学的な問題を科学技術の進歩によって解決できるようになったと判断し、これを実証する実験をしているからです。ご期待くださいますように。なおこの実験におきましては、複数の方に匿名で登場いただいておりますが、これは実験をあくまでも理想的に進めることを目的としているだけであって、他意はありません。このページにお出でくださる方はどうかこの点をご理解くださいますようお願い申し上げます。この実験が人間関係で悩める方への励ましとなれますように。(2014.9.7)
※以下の文章はとても貴重な「体験談」です。関係者の方には申し訳ありませんが、地域をトラブルのない明るい社会にするための具体的な参考例として取り上げることにご同意くださいますようお願い申し上げます。
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話は前回に続きます。彼は私に「その地域にはその地域なりのルールがある」と言います。これはすでに26年も前のことですが(それがこの今もこうして陰湿にくすぶっているのは、恐らくその不可思議なルールがあるためなのでしょう)、当時私は家のローンと教室の部屋代だけで50万円以上を払っていました。この頃、授業中に教室に花火を投げ込まれたり、授業を終えて家に帰る途中に集団で私を待ち伏せして、身に危険を感じる程の嫌がらせを受けることがたびたび起きていました。また私に関係なく大家さんが塾の生徒の相談に乗り、生徒が一方的に塾を辞める事態が発生し、私はどちらが塾の経営者なのか理解に苦しむようになっていました。当然ながら、教室は落ち着きのない状態となって、生徒が1人,1人と辞めて行かれました。こうして、ローンの支払等にかなり窮するようになりました。そこで、住まいと教室を1つにすることによってローンの支払いと維持費を軽減したいと思い、教室を売って欲しいと大家さんに何度もお願いしました。しかし、残念ながら、願いは叶わず、結局、教室の改造費、間に入って話をまとめてくださった今は亡き方へのお礼等一切を請求されるままにきれいさっぱりお支払して、現在の場所に引越しして来たのでした。
その当時、私は人様に「卑きょう者」と呼ばれていましたが、もし「その地域のルール」にしたがうとすれば、大家さんに逆らうことなく、そこでただ塾を開いていることになるわけです。しかし、人の一生にはかならず「その時」があるはずです。これを逃したら、自分の人生そのものが狂ってしまいかねないこともあるのです。
また、上記の事情の結果として、結局、自分で家を建てるしかないと決断し、ある不動産屋さんに相談すると、「一億でないと家は建たない」と言われました。ある信用金庫に相談に行くと、金利は固定で5%ですと言われました。そんなにお金があるはずはありません。この不動産屋さんは誠意を持って次々と中古物件を紹介してくれましたが、どうしても納得のいくスペースのものがありませんでした。もちろん、この間も不動産屋さんは「一億の線」を頑として譲りませんでした。ところが、二か月ほど経った時のことでした。これはすでに話したことですが、別の不動産屋さんが同じ場所で8600万円の物件のチラシを新聞に入れました。私はこれを目にすると、すぐにこの不動産屋さんに連絡し、そしてただちに話を進めました。また、別の信用金庫さんに行って事情を話すと、ありがたいことに私の希望以上の金利で融資をしていただけるようになりました。
前の不動産屋さんには「一億では買えません」と言っていましたので、そのままにしていましたが、ある時、「トンネルをした」と言って、私に脅しまがいの呼び出しの電話を掛けてきました。これもすでにお話したことですが、これも「その地域のルールに従う」とすれば、店が「一億」と言えば、その通り「一億」で買うのでしょうか。「私は客なのです」。何とも不思議です。さらに不思議にも、結局、呼び出されて嫌な思いをさせて頂いたお礼として50万円を領収書なしでお支払し、しかも告げ口まがいの行為をされた町中の不動産屋さんにもお礼として領収書なしで50万円をお支払しているのです。ああ、何と言うことでしょう!これがこの地域の「ルール」なのですか?
ただ、常識的に考えて自分が間違っていないと確信できるのであれば、そのことを相手にはっきり伝えないと、後々に大きな誤解が発生する危険性があると直感しましたので、この点は断固主張させていただきました。その結果として今がありますので、最終的にはとても「安い授業料」だったと思っています。
もしかすると、この文章を私の都合のいいように書いているのではないかと思われる方がいらっしゃるかも知れません。しかし、民生委員としての自分の名誉、財産、信用の一切が吹っ飛んでしまいかねないほどの危険を冒してまでわざわざこのようなことをする意味が私にはまったくありません。この危険性を避ける唯一の方法、それは事実のみを自然の流れのままに書くことなのです。であればこそ、読まれる方は生きることを通して獲得した独自の経験則に照らして、これを矛盾のない合理的な文章であると判断するのではないでしょうか。なお、これまでたびたびお断りしていますように、上記のように書いているからと言って、私はこの文章に関係する方々に対して特別な感情を一切抱いておりません。それどころか、このような文章を「ケース」として書ける立場になれていることに感謝しています。
※話は続きます。しばらくお時間を頂きます。なお、文章はまだ統一的に読み直しをしていません。ご了承ください。(1/21),(1/22),(1/24),
(1/27),(1/28),(1/29),(1/31),(2/1),(2/3),(2/9),(3/8),(3/9),(3/10),(3/12),(3/20)
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今日の「天声人語」(2015.1.19)の中で「世の中には『まとめる側』に立つ人と、『要求する側』に立つ人の二通りがある。これは元自民党幹事長の加藤紘一氏の持論だ。・・・地域社会の中では、時に自分の主張を抑え、時には泥をかぶってでも、人々をまとめていく役割が必要だ。その責任を自覚している者こそが保守政治を支える・・・」と語られています。
先日、ある新年会の後の二次会として皆さんとご一緒に「カラオケ」に行った時のことでした。会場に入ると、カラオケの場であるにも関わらず、どなたも歌わず閑散とした雰囲気になっていました。私はお酒の入った集まりの時はいつも共通の話題を提供するつもりで、美空ひばりの『リンゴ追分』をアカペラで歌っています。ですから、その気持ちで、場を盛り上げようと、この時はポール・アンカの『ダイアナ』を歌いました。まだ、どなたも出ませんので、さらに続けて歌いました。そろそろ、お一人お一人と出始めました。ある方が「私、これにしていただこうかしら」と気軽におっしゃってくださるほどに雰囲気が盛り上がり始めた時のことでした。
1人の男性が私の横に座って「あのね、あんたね、雰囲気を読みなさいよ。こういう時はね、1人一曲と決まっているんだから。いい、分かった」とおっしゃいました。私は「言わせてもらいますが、私がこのような時にどれ程気を使って雰囲気を盛り上げようとしているか、あなたが一番良く知っているはずです。私はこれまであなたを中心にした嫌がらせで、あなたの店でどれほどの製品を買いましたか。何とかしてこの嫌がらせを止めて欲しいと祈って、そして、人様が集まれば、このつらい気持ちを皆さんに分かって欲しいと祈る気持ちで、いつも歌を歌って来たのです。せっかくですから、言わせて頂きますが、私は少なくともあなたの最高の客ですよ。その客に向かって、そのような言い方がありますか」と言いました。
すると、彼は「あのね、それは分かった。でもね、その地域にはその地域のルールってものがあるのよ。それを分かんなさいよ」と言います。どのようなルールなのか定かではありませんが、どうやら、「体育会系」の横からの批判を許さない縦の組織的な意見を絶対とするものらしいことだけは薄々感じられました。
彼の襟には区から頂いた金バッジが光っています。これを付けることによってこの中で自分が一番偉いと思っているらしいから始末が悪いです。それはそうと、スポーツは「不正を許さない」という根本的なルールがあればこそスポーツと言えるのです。彼はそれこそ「体育会系」の強い人間関係の絆を個人の利益のために巧妙に「嫌がらせ」の手段として利用し、そして私に多くの商品を買わせていたわけです。このような人がその地域の中心になっているとすると、その地域はいったいどんな地域なのでしょう。考えられることはただ一つ。それはトップに対しては絶対的に従順であって、目に見えないところで、その庇護のもとで自分の都合のいいように振る舞えるようになっている地域だということです。ある方の言葉を借りれば、金バッジを隠れ蓑にして、トップの顔に泥を塗っているわけです。
私は今日、加藤紘一氏の精神の一部を頂いて、「民生委員」として「泥をかぶる」覚悟でこれを書きました。ところで、その日は私はそこでの嫌な気持ちを吹っ切るように、お声の掛かっている次の会場に向かい、そこで皆さんと楽しく盛り上がりました。(2015.1.9)
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たとえば、昨日(2014.12.22)、またもやテレビが故障しました。これは文章を展開する上での資料として述べるだけであって他意はありませんのでご了承いただきたいのですが、私はこれまである地域の特定のグループの方々に徹底していやがらせを受けていました。あるお店の玄関のガラス戸には「田井塾」の名前が逆さに貼られたり(たとえば、広告の地図の上部を裏返しにしてガラスに貼ると名前が逆さになるのですが、この時、田井塾だけが逆さに目立つように細工をしてあるのです。普通だと、これだけでお店のイメージに傷が付くはずなのですが、それだけデリカシーに欠けているということでしょうか。なお、ありがたいことに、これはすでになくなっています)、またグループでいる時は私が彼らの側を通るとそれだけで徹頭徹尾「無視する」といった具合でした。これは経験した人でないと分かりませんが、大の大人がグループで「無視する」状態は、個人個人の大人としての威圧感が1つに束ねられ、「無言の力」となってベクトル的にこちらに向かって来ているように感じられますので本当に恐ろしいです。
この状態を何とかしてなくしていただこうと、そのグループの中心的な存在の方のお店でいつも電化製品を買うようにしていました。しかし、冷暖房を買えば、パイプのどこかに穴が開いてガスが漏れているからと言われ新たに買換え、洗濯機を買えば、洗濯の最中に振動が激しくなるトラブルが発生し、結局、中のドラムを交換修理するはめになり、テレビを買えば保証期限がぎりぎりに過ぎた頃に基板交換の修理が必要と言われ、そして昨日(12/22)またしても故障し、メーカーに来ていただくと、液晶画面を交換せねばならず、工場に持ち帰って修理するので2週間以上は掛かるとのこと。しかも、費用として少なくとも5万円は掛かるとのこと。もしかすると、購入してから7年も経っているので寿命なのかもしれませんが、しかし、それにしても日本の製品も何と寿命が短くなったことか、と思うのです。このようなわけで、そのお店で高価な買い物をしてもまったく効果がありませんでした。それどころか、当時を思い出させるかのように、こうして今も製品がトラブルを起こしているのです。
ありがたいことに、「民生委員」になってからはさすがにこのような問題はなくなりました。ただ、ここで問題があります。人間が生きるための手段として固有に持っている「マニュアル的行動スタイル」が、もしそれが「根本的」なものであるとすれば、そんなに簡単に変われるだろうかということです。もしかすると、「民生委員」となった私に対してはそのような振る舞いがなくなっただけであって、別のところで私の代わりに別の「お年寄り」が「上辺の親身さ」を親切心と誤解し、被害を被っているのではないかと心配するのです。もちろん、こちら勝手の考えすぎではありますが。
事が事だけに、念には念を入れて繰り返させていただきますが、このように文章を書いても関係する皆さまに決して悪い印象を抱いてはおりません。それどころか、民生委員としてさらに活躍する上での貴重な体験をさせていただいたわけですから、つまり、「ケース」として発表する際の重要な根拠が与えられているわけですから、心から感謝しているしだいなのです。それから、ついでと言っては大変失礼ですが、その当時、私が精神的に滅入っているとき、いつも積極的に声を掛けてくださったのが民生委員の方でした。その方がいらっしゃったればこそ、私は反対にボランティア的な活動に積極的に参加して行くことが出来たのでした。誤解を恐れず申し上げれば、私は民生委員の役割の重要性を最も深く認識している民生委員だと思います。その節は本当にお世話になりました。ありがとうございます。
ところで、もしかすると、こうして書き続けていると、「どうしてその時に直接抗議しなかったのですか」とおっしゃる方がいらっしゃるかも知れません。たとえば、直接抗議したとしましょう。しかし、これは「1:多」の関係の宿命なのですが、私の行動は「仲間意識を強めるための手段」となって、結局、私のマイナスのイメージがどんどん広がって行ってしまうだけなのです。ですから、私を何とかして怒らせようとする「挑発」的な行動をも含めて、彼らとは出来るだけ関わりを持たないようにしていたのでした。もちろん、一縷の望みを抱いて、そのお店からいつも製品を購入してはいましたが。
しかし、時代は私に公正な立場で弁明するチャンスを与えてくれました。それはこのPCを使った環境があったればこそ可能なものです。これまでは「1:多」の力関係によって人間界の感情の渦に巻き込まれると、そこから抜け出すことはまず不可能でした。しかし、このPCを使った人間の能力の進化のお蔭でいかなる場面でも力関係が「1:1」となり、これによって過去の自分の不名誉な事実を容易に訂正することが出来るようになったのです。
このような言い訳がましいことをたびたび書くことから、私がいかに神経を使ってこの文章を書いていることかとお察しいただきたいのですが、繰り返しますが、この文章を人様に「恨みを抱いて」書いているわけでは決してありません。あくまでも「民生委員」としてこのような「いやがらせ」が起きたとき、どなた様も傷付くことなく円満に解決する方法があると考え、私のこれまでの経験を基にその方法を求めて客観的に考察しているにすぎません。なお、「私のことがここに書かれて信用に傷が付けられた」と思われる方がいらっしゃるかも知れませんが、この場合は、そのように思われる要因が心に残っているからそのように判断されるわけですから、申し訳ありませんが、当然ながら、そのように思われましても私は責任を負うことは出来ません。これも何かのご縁ですので、より理想的な「福祉社会」の実現のためにご協力くださいますようお願い申し上げます。さて、また元の軌道に戻りたいと思います。(2015.1.3)
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ところで、(2014.12.11)で触れさせていただいたご夫妻の件ですが、私がとても大切にしていた方々にそれほどまでに誤解されてしまい、しかもその状況が今も変わらずそうだと思うと、何かとても複雑な心境です。
さて、それはそうと、私はこの文章を書いているPCの画面を前にして、科学技術の進歩によって私の中の「わたし」とこれをお読みくださる「あなた様」の中の「わたし」との間に「タイムマシン的効果」が発生していると思います。これまでは、文章を書いてもこれを発表しない限りは、その内容は私だけが知るものでした。ところが、今はどうでしょう。たとえ20年以上も前の事実であったとしても、それを文章として書いて情報の場の中に送り出すと、それを受取る時には、私も「あなた様」も同じ現在の「わたし」の立場でそれを読むことになるからです。
これは、言うまでもなく、私たちがこれまで持つことの出来なかった、これだけで私たちは能力的にヒトとして確実に「進化」していると思える現象です。何と素晴らしいことでしょう。何しろ進化の過程の中にあって進化していると認識できるのですから。さっそくこの「相対論的効果」を確かめてみたいと思います。
さて、私は20数年前の現在、ある不動産会社に呼び出されて、この会社の応接室にいます。この部屋で、こちらの会社の社長さんをはじめ、関連する方々5名が窓を背にしてソファに座り、私は「尋問」される形で彼らの前の椅子に座っています。
私はこの会社の社員の方から、「もし、この呼び出しに応じなければ、銀行から融資を一切受けられないようにするから、それでもいいなら来なくてもいい」と言われ、そうなったら大変と、こちらも怒りを抑えて会社の呼び出しに応じたのでした。話によると、主だった銀行の方々が来ている筈でしたがどなたもいません。
会社側の主張は私が「トンネル」をした、ということです。これは業界用語で、はじめ、私はこの言葉の意味が分かりませんでした。その意味を率直に尋ねると、社長さんは顔を真っ赤にしながら説明をはじめました。要するに、私がこの不動産屋さんから別の不動産屋さんに乗り換え、そこと契約を交わして現在の建物を手に入れたと怒っているのです。
私はこれに対して断乎抗議しました。問題は、こちらの不動産屋さんが「
1億円でないと家が建たない」と主張して譲らないことにありました。これでは私は買えないと言い続けていたのですが、ある日、別の不動産屋さんが同じ場所で、8600万の値段を付けたチラシ広告を新聞に入れ、幸運にも私がこれを目にしたのでした。
「トンネル」したかどうかは分かりませんが、私は買う立場の人間です。常識的に考えて、買い手が求めている条件と合わない店で、果たして買い物をするでしょうか。私は「今回のチラシによって、社長さんの店が研究不足であったことが明らかになったのではないでしょうか」と申し上げました。このように申し上げたのは、一代で築き上げた苦労人としての社長さんの厳しい顔に、若造であるこの私の意見につねに耳を傾ける真摯な姿勢を見せていたからです。
結局、日を改めて、そのチラシ広告を持ってもう一度こちらの会社を訪れるということで今日の話し合いは終わります。
※注意:また同じことを書いていると思われる方がいらっしゃるかも知れませんが、「証明」にはつねに「事実」としての「根拠」が必要であることをご理解くださいますように。
※注意:これは民生委員としてはひじょうに貴重な「ケース」であります。このような体験をすればこそ私は必然として「民生委員」でありますことをご理解くださいますようにお願い申し上げます。(2014.12.19)
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当時のノートを開くと1992年5月14日と書かれていますので、早いものであれからすでに22年も経ってしまっているのです。ミグダルの本を集中的に翻訳することによって、ミグダルと親しい間柄にあった東大総長有馬朗人先生のお導きもあって、本が新聞の書評欄に大きく取り上げられました。これが切っ掛けとなって、たとえば、東大で核融合に関する国際セミナーが開催されるとなると、私も声が掛かり、通訳等で積極的に活躍しました。しかし、科学の世界でこうして活躍の場が与えられるようになっていましたが、残念ながら、地域的には一種異様な雰囲気が漂っていました。まだ断定とまでは行きませんが、まるでかん口令が敷かれたように私を「無視」する状態が広がっていたのです。
ここで、このページにはじめてお出でくださっている方のために申し添えさせていただきますが、その当時「無視」されたからと言って、これを根に持って今こうして文章を書いているわけでは決してありません。そうした環境があったればこそ、現在こうして「民生委員」として当時を振り返ってその原因を客観的に分析出来る立場になれているわけですから、反対に心から感謝しているほどなのです。
さて、また話を元に戻しますと、たとえば、モスクワ大学から多くの研究者の方々がセミナーで東大にお出でになられても、しかし、残念ながら、セミナーが終わると、交流もそこそこにすぐにとんぼ返りする有様でした。「江戸川国際友好会(EIFA)」の会長としてはこの状態を見過ごすわけには行きませんでした。私はすぐに東大の先生に提案し、了承を得て、ただちにEIFAの会議に掛け、承認を得、そして江戸川区に企画書を提出しました。それは国際セミナーが終わった後に、モスクワ大学の先生方に江戸川区の一般家庭の皆さまと交流していただくことによって、私たち日本人の生活様式を肌で感じていただくことを目的としたものでした。
この企画は中里喜一前江戸川区長さんをはじめとする当時の文化リゾート課の皆さま、「ホームステイ・クラブ」関連の皆さまのご支援によって見事に成功を収めました。この活動は外務省の方にも高く評価され、新聞にも大きく取り上げられました。こうして、自然の流れとして、私も新聞にたびたび紹介されるようになっていました。
ある時、近くの店に買い物に行く途中、お近くの居酒屋から私のよく知っているご夫妻が出て来た時のことでした。ご主人が「先生、あなたはすばらし・・・」と言いかけたとたん、その奥さんが「何でそんなことを言うの」とおっしゃって、話をピシッと遮りました。気まずい雰囲気が流れました。彼女のお子さんたちにカラオケに誘われれば、喜んで足を運び、楽しかったお礼として費用を払えば、翌日には「昨夜、お立替いただいた分です」と持って来る有様でした。この段階で、私は地域的に完全に「無視」されていると確信しました。
いい年をした大人が「無視」という言葉を使うのは本当に悲しいです。しかし、それが現状なのです。あれから22年も経っているのに、それが今も余韻として残っているのです。そうした状態を維持することによって求心力を作らないとグループとして成り立たないのでしょうか。このようにして人と人の関係を作らないと、人と人の間に「秘密めいた合言葉」を作らないと人間関係を維持できないとすれば、ここに大人でありながら大人に成り切れていない人間の「弱さ、はかなさ」を感じるのです。
ここの段階で、「一体、そもそもの原因は何なのですか」という疑問が出て来ます。また同じことをぶり返すことになり、登場していただくことになる方には申し訳ありませんが、もちろん、匿名ですので、民生委員としての私のテーマにぜひ「宿命として」ご協力くださいますようお願い申し上げます。それでは、もう一度、お尋ねください。
「一体、何が原因なのですか」
お答えしましょう。
「それは、相手様の要求に応じられるだけのお金を持っていなかったこと、ただそれだけなのです」
これから恥をさらすことになりますが、その経緯を1つずつお話してまいりたいと思います。お聞きください。(2014.12.11)
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話は進みます。今これまでの文章を読み直してみて、多くの方に参考にしていただける内容がたくさん含まれていると思います。これをインターネットを使って配信するだけでも、これまでに前例のない試みであって、それだけでも注目すべき「実験」だと思います。
たとえば、戦後、日本はすべての人が「貧乏人」でした。そうした人たち1人ひとりが心に理想を抱いて必死に「生きる」ことによって現在の日本の繁栄が築かれています。ところが、今の時代のお子さんたち、若者たちは「生きる」ために「パンを得ること」がどんなに大変なことであったか、これを体で具体的に体験することなく、ただ頭の中で考えるだけの「抽象的」な問題となってしまっています。
たとえば、私が都立両国高校の定時制に通いながら、夜学校から帰ると、そのまま仕事場に行って、油まみれのプレス台に新聞紙を敷いて、それを机として勉強し、勉強が終わると、そこに椅子を並べて毛布にくるまって朝まで寝る生活を続けたものでした。私がこれほどまでして勉強したのは、もちろん、勉強が貧乏生活を抜け出すための「手段」であったからです。つまり、これを具体的に書くことによって「生きる」ために勉強がいかに大切であるかを強調している点で多くの方の参考にしていただけると思うのです。また、「定時制卒」であることを秘密にしておきたいという方がけっこう多いですので、戦後生まれの「断崖世代」最後の人間がどんなに苦労して勉強して来たか、このことを具体的に知る点からも私の体験談はとても貴重だと思います(なお、「苦労して」と書きましたが、勉強に「夢」がありましたので、実は「苦労」を「苦労」とは思いませんでした)。
もちろん、たとえ「生きるため」であっても、ただ「勉強する」というだけでは意味がありません。人にはそれぞれ与えられた環境があってその中で勉強しています。実は、この「勉強」はもっと深く考えると、2つのタイプに分けられます。一般的に行われる知識の蓄積、およびそれを体系化するための「理論的な勉強」と、この勉強の過程で発生する、「自分の夢を実現するためにもっと合理的な方法で勉強したい」という願いを実現するための「実験的な勉強」がそうです。たとえば、夜学校から寮に戻って、枕元の蛍光灯スタンドを明かりが漏れないように新聞紙で工夫しながら行った勉強は、私にとっては前者の勉強でした。こうして勉強している過程で先輩に「うるさくて寝れない」と怒鳴られ(これは先輩の立場からすると当然のことです)、この問題を解決するための方法として考えたのが、仕事場のプレス台で勉強することでした。これが後者の勉強なのであって、これらを両輪としてこそ、本当の勉強と言えるのです。ただ「勉強する」だけでは漠然とした表現であって意味がないことがこれでご理解いただけるものと思います。
もしかすると、布団に入って明かりが周りに漏れるのを気にしながら勉強することが「理論的な勉強」になるのだろうか、と思われるかも知れません。その状態で何ら不自由を感じることなく、ひたすら内面的に知識を蓄積する勉強をしている限り、やはり理論的なものにすぎません。実は、ここでは先輩の「批判」がとても大切な意味を持っています。先輩の「意見」によって私の「理論的な勉強」の仕方が社会的に受け入れられるようなものではなく、何かもっと理想的な方法があることを暗に教えているからです。その何かを求めて勉強の場を仕事場に移し、そして勉強する「実験」をしているからです。この点で明らかに「実験的な勉強」は理論的なものと異なっています。そして、さらに実は、ですが、この「実験的な勉強」が継続されるにつれて、それはいつしか「理論的な勉強」に変化しています。つまり、これらの勉強はつねに相対的な関係にあります。このことが私の経験を通して具体的に書かれている点で、お読みいただいている皆さまの貴重な参考になるのではないかと期待する次第なのです。(2014.10.26)
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普通ですと、出版に向けての契約をしてから1年ほど経って本が完成します。ところが、今回の場合はミグダルが亡くなられて1週間も経たずに翻訳が終了したという手紙が届いたのですから、夫人はさぞかし驚かれたことでしょう。しかも、ただ驚かれただけでなく、かなり感動されました。なぜなら、日本語での出版に向けて積極的に準備をしてくださったからです。私は夫人の好意に感謝し、ミグダルの生前を偲べる貴重な一冊となれるよう装丁にこだわり、表紙は和紙をイメージした白色とし、帯を金色とすることによって、標題の『量子物理のはなし』の黒々した文字がこれらの色彩に映えて高貴な雰囲気となるようにしました(出版社にお願いしました)。
実は、この本は標題は『量子物理のはなし』ととても親しみやすい表現になっていますが、内容はすでにお話しましたように量子力学と相対性理論の概念がベースになっていますので、かなり難解なものでした。これを私は独力で乗り切りました。しかし、これを自分の努力で翻訳し終えたとしても、読む人が読むと内容が矛盾だらけだったというのではまったく意味がありません。ここで大切なのは本を通してミグダルの知識を学び取る気持ちで、一行いちぎょうを文法に忠実に翻訳することでした。訳すことによって自分の知らなかった考えが心の中で氷解し、するとこの文章は日本語としてはこのように表現した方がいい、といった考えがふっと浮かび上がって来るのでした。そうなのです。難解な文章を日本語化しているとき、「心の泉」では物理学の概念がいつも「ヤマメ」さながらに漂っていました。
とは言っても、やはり不安は拭い切れません。ところがどうでしょう。出版して間もなく、自然科学系の雑誌に書評をいただくことが出来ました。また、御茶ノ水界隈の書店の理系コーナーを覘くと、本は平積みにされていたのです。また、とても嬉しいことに、ミグダル夫人からミグダルが書いた啓蒙書が数冊送られて来ました。驚いたことに、「ミグダルが日本に行った時に友人の有馬朗人氏に日本での出版を願って本をお預かりいただいていますので、ぜひ訪ねて欲しい」と手紙に書かれていたのです。何と、ミグダルは元東京大学総長の有馬朗人氏と懇意な間柄で、日本での出版を願って本を氏にお渡し申し上げていると言うのです。私はさっそく出版社を介して、有馬氏に問い合わせさせていただき、その本をお借りしてコピーし、そしてすぐ翻訳に取り掛かりました。
一方、この頃(1990年頃)、江戸川区では語学ボランティアとして活動できる人材を募集していました。私は語学を介して地域に貢献出来るとすれば、これこそ理想的な活動だと考え、応募しました。そして、江戸川区民の理想とするグループが私たちの手で誕生したらどんなに素晴らしいことだろうと考え、これを組織する側に立って積極的に活動してまいりました。
江戸川区文化リゾート課(現:文化課)のご支援の下、私は約50名からなる会員の皆さんによって会長に推薦され、こうして徐々に活動の輪を広げてまいりました。特に、江戸川区の語学ボランティア団体であることを強調して「江戸川国際友好会(EIFA)」と名付けられた私たちの組織は、会員の皆さんが語学を専門として活動していることから、外国人の方が江戸川区を表敬訪問する際は区長通訳として活動する機会が与えられました(同会は現在新たな方向性を模索しつつ活動しています。これは個人的な意見ですが、私は会に参加するだけでも活動であると考えています。私たちの会にぜひお気軽に参加されますことをお勧め申し上げます。なお、私は現在顧問として所属しつつ、かつ「民生委員」としての立場から同会の江戸川区における将来的な活動意義を考え、あれこれいろいろと「思考実験」をしております)。(2014.10.12)
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このページにお出でくださっている方の中には、これは前にも申し上げたことですが、一部だけお読みになられた場合、内容に一般性のない自己満足的な文章と思われる方がいらっしゃるかも知れません。しかし、これは、親が北海道の山奥での事業に失敗し、貧乏一家となって東京で暮らす中、長男である私が都立両国高校の定時制に通いながら、自分の理想を実現するためにがむしゃらに勉強してきた頃の情熱を「核」として語っている体験談、学校から寮に戻ると、すぐ仕事場に直行し、真夜中に油にまみれたプレス台に新聞紙を敷いてそれを机として勉強し、そのまま工場に椅子を並べて朝まで毛布にくるまって寝る生活をしながら、勉強の素晴らしさを見出し、それを多くの方々にぜひお話したいと念じている人間の体験談です。
本来なら、このような「貧乏暮らし」はそれでも子供たちを大切に見守り続けた親の愛情と共に自分の心の中にそっとして置きたいのですが、しかし、これまで私が受けて来た「いやがらせ」は精神的にそれ以上にツライものでした。「民生委員」として一層のこと、これまでの自分の生活を振り返りながら、そのすべてを吐き出し、この過程で「いやがらせ」の原因を究明する実験をすることが出来れば、これこそが民生委員が日常的に発表している「ケース」であり、かつこれだけで社会的に貢献する意義があり、のみならずこれによって多くの方への励ましとなれるのではないかと期待し、こうして文章を書いている次第です。(2014.10.1)
●レフ・オークンからミグダルがプリンストン高等研究所で他界された旨の訃報を受取ったとき、正直に言って、彼が亡くなったということを悲しむと言うより(まだ一度もお会いしたことがなかったのです)、文面から、「お気の毒ですが、出版はお諦めください」というニュアンスが感じられ、自分の目の前にあるこの352枚の原稿をどうしたらいいのかとただただ悩み、虚脱状態に陥ってしまっていました。来る日も来る日も、出るのはため息のみでした。
しかし、そうこうしている内に一縷の望みが出て来ました。私が2月8日に翻訳を終え、逸る気持ちを抑えてミグダルに手紙を書いているとき、彼が死への旅立ちを前に心を整え、そして翌9日に逝去されたという事実、この数字の連続性はれっきとした事実であると思うと、絶望の状態にありながら、まるで奥深い漆黒の闇であればあるほど、かすかな光が際立って明るく見えるように、そんな何とも言いようのない不可思議な感動が心の底から込み上げて来たのです。人生とは不思議なもの、いかなる場面であれ感動が込み上げるとき、人はまだ目に見えないだけにすぎない事実を暗黙に根拠として、そこに直観的に「美」を感覚し、これを心の支えとしてさらに道を切り拓いて行けるのですから。
後にこの352枚の原稿が拙訳『量子物理のはなし』と形になって世に出たとき、私は都立両国高校時代の恩師板倉素子氏にこれを謹呈しました。すると、彼女は私に「この本には宿命的なものを感じますね」とおっしゃるのでした。この言葉を頂いたとき、私はそれまでの独断的な判断が間違っていなかったと安堵の気持ちが心をふっと過(よ)ぎるのが感じられるほど、それこそ数字の連続性以外に客観性を持たないこの独り善がりな「宿命的な気持ち」をそれほどに自分の都合に合わせて受け入れていたのでした。それはそうと、当然ながら、すると必然としてその日が確実に訪れるように思え、私はその日を待って、ただちに原稿の読み直しを開始していました。
「宿命」という言葉は軽々しく使えるものではありません。使うべきでないと思います。この言葉には自分の気持ちだけではいかんともしようのない、神の存在を予感せざるを得ないほどの神聖な思いが込められているからです。そして、実は、であればこそ、ロシアの出版社「ナウカ」の編集者ナタリアさんから手紙をいただいたとき、私はそのままそこに跪き、天を仰ぎ、こうすることを宿命とする自分の存在を神に感謝しました。手紙には、ミグダル夫人が『量子物理のはなし』が日本で出版されるよう、レフ・オークン教授(何と彼はロシア共和国・実験物理学・素粒子理論研究所の所長だったのです)に「まえがき」を書いてもらい、また京都大学基礎物理学研究所で研究しているオークンの同僚ドルゴフ博士に私の相談相手になってもらうための準備をしていること、また著作権の相続人であるイタリア在住の娘のマリーナ・ミグダルから夫人に喜びの返事がすでに届いているということが書かれていたのです。ああ、何と言うことでしょう、「明治神宮」をその「美」の象徴とする正にこの「心の泉」のほとりで、私はいつしかミグダル夫人のそれこそ宿命としてのお力添えによって多くの方々とミグダルの本を日本語として出版できる喜びを共有しているのでした。(2014.9.28)
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これは前にも申し上げたことですが、白樺の根元を源として湧き出す、入口も出口もない「小さな泉」にどうして「ヤマメ」がいたのか、とても不思議でした。父に話したとき、洪水の時に泳いで来て、そこから出られなくなったのだろうと言っていましたが、もしかすると、釣ったヤマメをそこに放していたのではないかと思うこともあります。いずれにせよ、これで渓流でしか生きられない魚が常識的に不可能と思われる場所に常識的に存在出来ることがあるということを知りました。このことを直感した時の感動は、その後私が日常の場面で出合う意外性を見極めるとき、この「泉とヤマメ」の関係をモデルとして考えるほど、それほどに強烈なものでした。
時が経つにつれて、具体的な「泉とヤマメ」の関係は「ロシア語と物理学の概念」として抽象化され、今ではこれらの関係を内包する形で「心の泉」となって、「明治神宮」をその「美」の象徴とさせていただいております。不思議に思われるかも知れませんが、この「美」を精神的な安らぎの場としてひたすら翻訳活動をしてまいりました。それこそこの「泉」のほとりでその「美」をエネルギー源として多くの本を集中的に翻訳しました。するとどうでしょう、これによって心の中でイメージ化された物理学的な概念が土台となって思い掛けないアイデアがたくさん湧き出し、具体的な形となって発展して行きました。
たとえば、すでに紹介しましたミグダルの本『量子物理のはなし』を翻訳し終えた時のことでした。普通ですと、出版社が著作権センターを介してまず著者と日本語として出版するための契約を交わすのですが、私は、この本は何としても自分の訳本として出版したいという一途な気持ちで、ロシアの出版社を介してミグダルに直接「翻訳を終了したので、日本の読者の皆さんのために前書きを書いて送って欲しい」と、一般的にはかなり親しい間柄でないと書けない手紙をいきなり書きました。1991年2月8日のことでした。もちろん、英語でなくロシア語で書きました。と言いますのは、訳者である私がどんな人間なのか、少なくとも、ロシア語の力がどれだけあるのか、この手紙でいくらかでもご理解いただけるのではないかと考えたからです。そして、何よりも、この難解な内容の本を訳し切った情熱をこの手紙からミグダルに何としても察して欲しいと願ったからです。しかし、残念ながら、返事がなかなか来ませんでした。
これは拙訳の『量子物理のはなし』(東京図書.1991)の「訳者あとがき」に書いていることですが、それから約一か月半後の3月19日にレフ・オークンという科学者からひじょうに丁寧に書かれた手紙が送られて来ました。内容は、ミグダルがアメリカのプリンストン高等研究所にて他界されたというものでした。私は正直に申しまして、ミグダルがこのような素晴らしい本を書く頭脳の持ち主であるということは翻訳の過程で知っていましたが、それ以外のことは何も知りませんでした。アインシュタインや湯川秀樹、朝永振一郎といったそうそうたる科学者が研究していた研究所で研究できるほどの科学者であるとは少しも知りませんでした。ペレストロイカの嵐が吹きまくるロシアの国のどこかの研究室で研究費に事欠きながら、それでもまじめに質素に研究していることであろうから、私が翻訳を終えたと手紙に書けば、これでいくらかでも研究費に潤いが出て、きっと喜んでくれるはずだと勝手に想像しながら必死に手紙を書いているとき、ミグダルはかの有名なその高等研究所で生涯を終えつつあるのでした。(2014.9.25)
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「田井塾」は江戸川区と友好都市関係にある鶴岡市(山形県)の「鶴岡市東京事務所(鶴岡江戸屋敷)」より毎年稲苗をお分けいただき当塾の「小さな田んぼ」で大切に育てています。今年も穂がたくさん顔を出し、たわわに実を付けています。昨日(9/14)は教室南側の田んぼの稲刈りをしました。西側の田んぼはあと一週間ほどで刈入れをする予定です。
昨日刈り取った稲は、茎の枯れた部分をていねいにはぎ取り、青々とした状態で新聞紙に巻いて慎重に陰干しにしました。こうすると、新聞紙を広げたとき、実の黄金色と引き締まって乾燥した茎の緑色とが鮮やかに対照をなして姿を現します。これを1mほどの長さの紅白の水引と純白の和紙で包むと、稲は限りなく美しく清純な姿となり、こうして今年も「明治神宮」に奉納されるその日までの日数を数えることになるのです。
とてもうれしいことに、今年は例年以上にさらにたくさん稲が育ちました。10月から熟年者の皆さまに生活状況をお伺いする家庭訪問がはじまりますので、皆さまのご健康を祈念してこの稲穂を数本ずつお配りしたいと思います。
ついでと言っては何ですが、今日は「敬老の日」です。私の担当の地域を見回っていますと、「社務所」や「小岩アーバンプラザ」から元気のいいお年寄りの声が聞こえ、またお姿が見えます。このような「お祝い」の席に私は、時間的な都合もありますが、めったに顔を出しません。ですから、もしかすると私は「付き合いの悪い人間」になっているかも知れません。しかし、このような席に出て楽しいひと時を過ごせるお年寄りは、まったく心配ない方であって、民生委員としては、ましてこのような日はなおさら、こうした楽しい席にも出られずお家でひっそりしていらっしゃる方にこそ「気配り」をすべきだと思い、特に意識的に見回りして声を掛けるようにしているのです。
こうして現実を見詰めつつ過去を振り返ると、私が少年時代に北海道の山奥で出合った、白樺の根元を源として湧き出すとても小さな「泉」とそこにとても幻想的に存在していた「ヤマメ」は、その後色褪せることなく、今ではロシア語を「泉」、物理学の概念を「ヤマメ」とする関係を介して内面的に具体化され、そしてさらに、その「美」が「心の泉」の象徴であるところの「明治神宮」が究極の「泉」となって、これは偶然としての必然なのでしょうか、私は「民生委員」としてこのほとりで多くの皆さまの「幸せな生活」をお見守りする大役まで仰せつかっていることに気付くのです。(2014.9.21転記)
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さて、本を1冊自分の力だけで翻訳し、原稿を恩師金光不二夫氏にお渡しすると、それが赤鉛筆で真っ赤に訂正されて返されたことはすでにお話しました。あまりに無残な原稿の姿を見て、私は翻訳の仕事が向いていないと落胆していると、何とこの席に出版社の方がお出でになって私のこの原稿を受取り、そして出版に向けての準備に入ってくださるのでした。
私はこのように最高の環境に恵まれて先生にご指導をいただきました。にもかかわらず、「人間はこうあるべきだ」といったものの考えを強制されたことはただの一度もありませんでした。極端なことを申し上げると、先生の机の上にはある政党の機関紙がつねに置かれていましたが、もちろん、翻訳の世界に入ったばかりで精神的なゆとりがまったくなかったこともありますが、それを読みなさいと言われたことはただの一度もありませんでした。また、先生はソ連の出版事情を調査するためにご夫妻でモスクワにたびたびお出でになられていらっしゃいましたが、時間もお金もない私には一度もお声が掛からず、そのため、今もってロシアに行ったことがないありさまなのです。
しかし、今振り返ると、これは私にとっては本当にありがたいことでした。先生の弟子でありながらまったく拘束されることがなく、結果として、これが自分の関心とする分野を集中的に翻訳するチャンスとなったからです。そう、正に「集中的に」なのです。たとえば、ロシアの現代の素粒子物理学の発展に大きく貢献した科学者にア・ベ・ミグダルがいます。当時、私は彼がどのような科学者なのかまったく知りませんでした。ロシア語で書かれた彼の本の標題『量子物理のはなし』という活字があまりに「美しく」、たったこれだけで私はこの本に引き寄せられ、翻訳の権利を確保するための契約等を交わすことなく一気に翻訳を開始したものでした。この本は現代の科学技術の発展に欠くことの出来ない「相対性理論」と「量子力学」を「認識論」の観点から解説したものでした。とても難しい内容でしたが、しかし、この本そのものが私にとっては「ヤマメ」でした。これを訳している時はまるで「心の泉」をそれが泳いでいるような言いようのない幻想的な感覚を味わっていました。内容が難解であればあるほど、ますます文章に集中し、その一行がこれまでの内容から判断して矛盾のない日本語であると決定した瞬間、私の心の中で感動が「美」となって広がり、そしてその感動がさらなる「美」を求めて私に次の一行を強要するのでした。(2014.9.18)
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私はふと思います。それは「私と彼女のいったいどちらが被害者なのか」ということです。たとえば、当時私はあるお店のご主人を中心とした数人のグループに陰湿ないやがらせを受けていました。私はそれを何とかして止めていただこうと、そのお店から製品をたくさん買っていました。しかし、製品を買ってもいつまで経っても嫌がらせが続きました(話の流れとして触れさせていただきますが、お許しください)。
この状態に耐えられず、地域でさまざまな活動に貢献されているある方に相談に乗っていただこうと、その方に私を紹介していただきたいと彼女に何回もお願いしました。今思えば娘さんの件がありましたので当然のこと、願いはかないませんでした。そこで、自分で直接お会いすることに決め、いつも打っている自慢の「手打ちそば」を持ってその方の事務所の方へ何度か挨拶にお伺いしました。しかし、それでもお会いすることが出来ませんでした。
ある時、思い余って、その方が中心となって企画されている「行事」にお祝いのお金を包んで参加させていただきました。ああ、何と悲しいことでしょう。お会いしてすぐ、その方は「何、あんた、あれ、ツバ引っかけて打ってるの?」とおっしゃるのでした。私は立場上もっとも信頼できると期待していた方からこのような言葉をいただき、地域の特定の方々からどのような目で見られているか、これでよく分かりました。お察しいただけると思いますが、正直に申しますと、「田井塾」自体が将来どうなることかと半分不安な気持ちを抱いて、この文章を書いています。
つい先だって、それこそ「一隅を照らす」心で多くのお年寄りを大切にお見守りし続けていた方が、惜しまれつつお亡くなりになられました。お通夜の日、江戸川区の最高のトップの方が、まるで友としてその方との別れを惜しむかのように、どなたに気遣いさせることもなくそっとご焼香にお出でになられ、静かにご退席されていらっしゃいました。私はこの方にトップとしてのあるべき毅然とした姿を自然の振る舞いの中に見させていただきました。人様に対する気配りの心、これほどの方でこうなのです。
この方のお姿を遠くから拝見しつつ、もちろん、ある特定の方々からすると私は「被害者」ですが、であればこそ、私は「民生委員」としての大切な役割を仰せつかっているのだと心を引き締めている次第です。(2014.9.14)
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私は今二人の恩師飯田規和氏、金光不二夫氏を中心に文章を展開させていただいております。お二人をご存じでいらっしゃらない方々がこれをお読みになられても、まったく意味のない件(くだり)であることは重々承知しております。しかし、お二人を紹介することが私がこれまで江戸川区においてさまざまな活動をするための契機をお与えくださいました前東京大学総長有馬朗人氏、前江戸川区長中里喜一氏を紹介させていただくための前段階としてとても大切な意味を持っていることだけはぜひご理解くださいますようお願い申し上げます。(2014.9.12)
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さて、話は続きます。金光先生のご指導の下で私はより実践的に翻訳の手ほどきを受けることが出来ました。飯田先生の下で当時のソ連の若手の作家の文学作品を翻訳を意識しながら日本語化する訓練を受けたのに対して、金光先生にはソ連で出版された算数や数学、理科、物理、化学、あるいは科学史といった理系の啓蒙書を翻訳しながら、翻訳のノウハウを実際にお教えいただく光栄に恵まれました。
たとえば、先生に「これを訳してごらん」と「宇宙進化論」の本を手渡されました。1か月ほどで最初の数ページをテスト的に訳して原稿を先生にお渡しする予定になっていましたが、私の関心とする分野の本でしたので、私は先生の許しを得ずに思い切って勝手に翻訳を開始しました。ところが、訳が進む内に内容がかなり専門的になって、常識としての知識を蓄えない限り先に進めない状態に陥ってしまいました。
お近くの図書館に行って宇宙論に関する最新の本を借りて読みまくり、こうして常識的な知識を1つひとつ増やして行きました。この下調べ作業と並行して翻訳を行うようになり、終了して気が付けば、1か月の予定が2年以上にも伸びてしまっていました。恐る恐る原稿をお持ちすると、先生は何もおっしゃらずに黙って受取ってくださいました。もちろん、この翻訳作業をしている間も毎週日曜日には必ず西荻のご自宅に伺って翻訳の手伝いをいろいろとさせていただいておりました。
このようにして足しげく通って翻訳作業をしているとき、先生は私が2週間ほど前にお渡しした「宇宙進化論」の原稿を「これ見てごらん」とおっしゃって私の前のテーブルに置きました。原稿を手にして1枚ずつめくると、何と、すべてのページのすべての文章に訂正が加えられ、原稿が赤鉛筆で真っ赤になっていました。この目の前の悲惨な状況を見て、自分に翻訳の才能がないことに気付き、「これからどうすべきか」と愕然とした気持ちで、ただひたすら原稿を見詰めていました。
1時間ほど経ったでしょうか、先生を担当するある出版社の編集者がお出でになられて、私の横に座られました。先生はその方に私を紹介すると、「その原稿、お渡しして」とおっしゃいました。赤鉛筆の小さな文字で訂正されたこの原稿です。これを彼に渡すとは。私は驚きました。とにかく、言われた通りにすると、編集者の方は、原稿を1枚いちまいめくり、何と「これだけ細かく見ていただけてますので、安心してお預かり出来ます」とおっしゃるではありませんか。私の翻訳家としての道の始まりでした。(2014.9.9)
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うっかりしていたことがあります。たとえば、ある方が「田井さん、ロシア語出来るんだって」とおっしゃっても、私は何とも思いません。このような時は、もちろん、「はい、出来ます」といつも答えています。なぜかと言いますと、そのような間柄だからです。これに対して、これまで登場いただいている女性の方の場合、すでにお話したような「根拠」があっての「ロシア語…」発言なのです。ですから、あまりお気になさらずに、「ロシア語・・・」と気兼ねなく自由にお話してくださいますように。(2014.9.9記)
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ところで、私は前々回(2014.8.27)、東京理科大、日ソ学院、東京外大の3つの学校に通ってひたすら勉強に励むことによって、不思議にも、かえって日ソ学院そばの「明治神宮」の境内をゆったりと散歩する時間を見出すことが出来ていたと申し上げました。実は、私の心の中では「泉とヤマメ」の関係をモデルとして、「明治神宮」を「心の泉」に、ロシア語を介して日本語化される物理学の概念を「ヤマメ」に対応させることによって独自の世界を具体的にイメージ出来るようになっていました。すると、意外にもこの「心の泉」から物理学の概念のみならず、さまざまなアイデアが自然に湧き出して来るではありませんか。予め申し上げておきますが、これらのアイデアはすべて現実に具体化されていったのです。それではさっそく、これについての話をさせていただきます。
正直に申しますと、すでにお話しました東京外語大の飯田規和教授もまたこれから紹介する教授の友人である翻訳家金光不二夫先生も大学時代に旗を振って学生運動に明け暮れていたといつもお話してくださいました。しかし、だからと言って、年が一回り半も違っている私に対して「あなたもそうしなさい」とは決しておっしゃいませんでした。それどころか、飯田先生は私が3つの学校に通って必死に勉強していることに好感を抱き、気が付けば所沢のご自宅にお邪魔し、奥さま自慢の手料理をご馳走になるまでの間柄になっていました。こうして3年間、翻訳のノウハウをご指導いただき、大学を卒業すると、今ご紹介した先生の大学時代からの友人である金光先生に私を紹介してくださり、こうして新たな先生の下で翻訳家としての道を本格的に歩むことになるのでした。(2014.9.7転記)
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もしかすると、下に書いた文章は本当なのだろうか、と思われる方がいらっしゃるかも知れません。これに対してはこのように考えていただきたいと思います。民生委員でありながら、人様の心を傷付けるようなウソの文章をこのような場所に危険を冒してわざわざ書く必要がどこにあるだろうか、と。将来的に予想されるリスクを最小限に止めたいと願えばこそ、自分の恥をそっちのけにしてこうして必死に書いているのです。
このような文章を書く時は時間的に間を開けながらかなり慎重に書いています。自分で読み返してもやはりおかしい、と思う時は人様は私以上に「この人、少し変だ」と考えていますから、つまり、私の人間性が疑われるわけですから、その時は文章をその場で削除出来るという点で、これがもっとも理想的な方法だと思います。たとえば、文章を公開しない形で書いている場合を考えてみましょう。これですと私が民生委員の立場でありながら「政治的に特別の政党と関係している」とウワサされても、ひたすら黙認(それを耳にしても否定しない限り、外見的には「容認」)している状態であって、書いている意味がまったくありません。ところが、こうして発表すれば、そのようなウワサを心あるどなたかが耳にしたとき、私がこうして提供する情報を根拠に、もしかするとそれを否定してくださるのではないかと期待できます。またたとえそうでないとしても、少なくとも「この人が例のあの人なんだ」とその方の人間性を別の観点から認識していただくことは出来ます。こうして考えても、やはりこの方法が理想的だと思います。
誤解しないでいただきたいことがあります。それは、私がこのように書いたからと言って、その政党の存在を否定しているわけではないということです。一市民の立場で考えたとき、たとえば、選挙で野党としてその党だけが候補者を立て、独自の意見を主張し、また与党と互角に論戦を交わし、そして最後に一般市民に堂々と判断を仰ぐ姿勢を見せるとき、民主主義の根本が選挙によって成り立っていると単純に考えた場合、民主主義社会の存在に積極的に貢献していると思うくらいなのです。また、社会的に万が一にも彼らの考えが民主的に否定される状態にあるとすれば、それはすべての人がその人らしく幸せに暮らせるよう「公平、平等、中立の精神」で見守る立場の「民生委員」の存在意義が根本から覆されていることを意味していると思うのです。このようなわけですので、決して誤解しませんよう心からお願い申し上げます。(2014.9.6転記)
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たとえば、その方の娘さんのお相手を紹介することにした時のことでした。彼とお会いするとき、娘さんが車を出して気軽にドライブでも、ということで話がとんとん拍子に進んでいました。ところが、彼女は当日待ち合わせの場所に「電車にしたい」とおっしゃって歩いて来ました。私は彼に「申し訳ない。許してください」と申し上げました。彼はぶっきら棒に「分かりました」とだけ答えました。のみならず、お二人を改札口まで見送っていると、ああ、何と言うことでしょう、彼女のお母さんの友人が面目丸つぶれの「肩で風を切るような横柄な態度」で彼らの後を付いて行っているではありませんか。これが電車に変えた理由だったのでした。
その日の夜、娘さんに電話をすると、「彼がデートの間中、メールのやり取りをしていて、私とまったく話をしませんでした」と憮然としておっしゃいました。しかし、私は娘さんがあまりに気の毒で、話がまったく違っていて、しかもお母さんの友人が「側にいる」のですからとは言えませんでした。
実は、私が紹介した相手の方は、ある事情(この頃から、すでにロシア語の問題が地域的に絡んでいました)で塾の生徒が激減し、これを補うためにパートとして勤めいてた研究所の上司でした。それ以降、彼の私に対する態度は急変し、研究所内の人間関係が壊れ、最終的に私はクビになりました。
しばらくして、娘さんのお母さんから電話がありました。お礼の言葉をまだいただいていませんので、てっきりそうだと思っていましたら、「あなたの所に写真を置きたくないから返してほしい」という電話でした。私は「分かりました」と返事をして、電話を切りました。
とは言いましても、娘さんの写真はある大学の教授に「どなたかいらっしゃいましたら」とお預けしていました。教授に電話し、彼女のお宅に写真をお送りしていただきたいとお願いしました。そして、娘さんのお母さんにすぐに某大学の教授からそちらに写真が送られますので、しばらくお待ちくださいと電話すると、彼女は「それならそうと、おっしゃってくださればいいのに。写真はそちらの大学に置いていただけます」とおっしゃいました。私は即座に「それはもう無理です」と申し上げました。すると、彼女は「それなら、もうけっこうです」と電話を冷たく切りました。
こんなことを申し上げては何ですが、教授に彼女にふさわしい青年がいらっしゃったらぜひ一度お食事をして、お話をしてみていただきたいと、私はいくばくかのお金を食事代としてお渡ししたりしていました。彼女はこのことを知りません。私も請求しませんでしたが、残念ながら、今もって菓子折りの1つも持ってお礼にも来てくださいません。それどころか、今では「この人ね、ロシア語ペラペラなんですよ」と意味あり気な抑揚で言いふらして回っているのです。とても悲しいです。
彼女の他に、まだお三人のお母さまからお話をいただいておりました。それ以来、私は人様を紹介することが精神的に出来ない状態になってしまいました。幸いあるお母さまのお嬢さんはご自分の理想とするお相手と出会い、今は幸せなご家庭を築いていますが、他の娘さんには本当に申し訳ないことをしてしまったと、心を痛めている次第です。こうした事情を娘さんたちに話していませんので、彼女たちからすると私は完全に無責任な人間になっているのではないかととても心配です。
このような文章を書くとは男として何とも恥ずかしい限りです。しかし、「民生委員法第16条」がある以上、「民生委員」としてこれまで書いた文章に偽りがないことの根本的な根拠を明確にすることによって、自分が理想とするこの立場を守らなければなりません。お許しくださいますように。(2014.9.2)
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戦後生まれの私には、「ロシア語」という言葉にどうしてそれほど「過剰」に反応するのか、と正直言ってこの問題を根っ子からは理解できません。ただ、江戸川区の住民に匹敵する約60万人もの人々がシベリアに抑留され、そして戦後約10人に1人もの方が日本に帰れなかった(厳寒のシベリアで望郷の念を抱きつつ亡くなられた)ことを考えれば、人は戦争によってかくも残酷になれる生き物であることよ、と悲しみます。また、日本が敗戦国となる直前にソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄して日本の「領土」である「満州国」に侵入し、そして連合国側の一員として勝利宣言し、北方四島をソ連の領土とした事実を考えれば、人は戦争によってかくも卑怯になれる生き物であることよ、と嘆きます。
しかし、これらの「残酷さ」、「卑怯さ」は今も地球上で「大義」をかざして戦う国々の中に見られます。また、日常生活をちょっと観察するだけで、たとえば、身体的な欠陥を宿命として持つ人に対して抱く「生物学的優越感」を抱く人(特にご自分のその美点を見落とし劣等意識のみが強くなっている方)の表情を本能的に察知するだけで、日常レベルでもこれらの言葉が「偏見」という言葉でオブラードされてはびこっていることを知ります。
つまり、終戦直前のソ連の「残酷さ」、「卑怯さ」はソ連固有のものではなく、人間固有の感情として潜在的につねに持っているものなのです。ですから、「ロシア語」を専門としているからと言って、なぜこれらの感情を背景とした「偏見」の目で見られなければならないのかとても理解に苦しむのです。しかも、私はれっきとした日本人なのです。
ところで、それはそうとして、これまでお話してきたことから、私にとって「ロシア語」は純粋に「生きるための手段」であったことはご理解いただけるものと思います。この点では目的は達成していると思いますが、しかし、「民生委員」としてこのような「偏見」がどのようにして発生するのか、せっかくここまで書いてきたのですから、その方のお名前を伏せさせていただくことを当然として、もう少し細かくその原因を分析してまいりたいと思います(お断りしておきますが、これまで女性の方をこのような場で文章化したことは一度もありませんし、これからも決してありません。私にとって女性の方は自然が創造した「究極の美」の「象徴」なのです。ですから、今回はかなり特殊なケースだとご理解願います)。また、これまでの数々の事実(一般に人はこれを「煮え湯を飲まされる」と表現します)からして、私にはそうする権利があると思います。ただ、「私はこんなことをしていません」と抗議なさると、それが事実であることの証明となりますのでくれぐれもご注意くださいますように。
また、インターネットを使ってこのような活動をすれば、精神的に被害を受けていらっしゃる多くの方々が誰の心も傷付けることなく、もっとも理想的な形で悩みを解決できることに納得いただけますことを心から祈っております。この文章を通して私が「民生委員としての情熱で燃えている」ことをお察しくださいますように。(2014.8.31)
<お願い>
※いつもお出でくださいましてありがとうございます。これまでの文章は一時的に下記のページに保存しております。時間を見て、こちらの専用ページに移動する予定でおります。しばらくご面倒をお掛けしますが、よろしくお願い申し上げます。関心のあります方、こちらのアドレスを軽くクリックしてくださいますようように。
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